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紀ノ川平野から天野の里へ
慈尊院~丹生都比売神社

1.慈尊院(じそんいん)

(国史跡、国重要文化財)
慈尊院の境内(国史跡)

慈尊院は今、紀ノ川平野をゆるやかに見下ろす高台に建っていますが、もともと現在地の300mほど北の、紀ノ川河畔にあり、弘法大師が高野山上に修禅道場を開設するにあたり、紀ノ川の水運を利用した物資の調達や運搬の拠点でした。

のちに弘法大師の年老いた母君が郷里の讃岐の国からこの寺院に住まいを移し、弘法大師が月に九度、母に会うために下山したとされ、九度山の地名がおこったといわれています。

本尊の弥勒仏坐像(慈尊)は、弘法大師ゆかりの仏像として国宝に、弥勒堂は鎌倉時代の内陣の周囲に天文9年(1540)の庇部分が取り付くもので、国重要文化財に指定されています。

2.丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)

(国史跡、国重要文化財)

この神社は慈尊院から続く石段を上りきった平地に鎮座しています。弘法大師が慈尊院を開いたとき、紀ノ川河畔の現在の宮の橋付近に地主神として丹生都比売明神、狩場明神を勧請したのがその歴史のはじまりであると伝えられています。

その境内は神通寺と呼ばれ慈尊院の守護神として、また神仏習合の神社、かつては高野山頂、官省符二十一ヶ村の総鎮守社として栄えました。春日造・檜皮葺の一間社の本殿三棟は国重要文化財に指定されています。

3.町石と里石のかたち

 
百四十四町石(左)と一里石(右)
町石と里石は六甲山麓などで切り出された花崗岩でできています。高さ3m、幅30cm、750kgもあるこの大きな石は、瀬戸内海から紀ノ川を経て慈尊院から運び上げられました。

20年の歳月をかけて建立された216基の町石と4基の里石はすべて五輪塔の形式で、一本の石に下から地、水、火、風、空を表現して方、円、三角、半月、団の形の五輪を積み上げたような形になっているのが特徴です。五輪塔は平安時代中期以降、各地で建立されるようになりましたが、高野山が発祥の地です。

町石の正面には胎蔵界百八十尊の諸仏(慈尊院~壇上伽藍)、金剛界三十六尊の諸仏(壇上伽藍~奥の院弘法大師御廟)を表す梵字と寄進者名、左右の側面には氏名、寄進の年月が陰刻されています

4.石造五輪卒塔婆群(せきぞうごりんそとうばぐん)

(県指定文化財)
石造卒塔婆群

明治維新後の神仏分離まで、丹生都比売神社境内の別の場所にあった、鎌倉時代から南北朝時代にかけて修験者(山伏)が建立した五輪卒塔婆4基が、江戸時代の五輪卒塔婆1基とともに神社の外側に元からあった光明真言板碑のかたわらに移されています。

この五輪卒塔婆は一石で彫られた町石とは違って二石造りで高さは2~3m、建立年代は正面右から延元元年(1336、砂岩)、正安4年(1302、緑泥片岩)、正応6年(1293、砂岩)、文保3年(1319、花崗岩)です。

それぞれに碑伝形式をとっているのがこの卒塔婆群の大きな特徴で、建立された年月日をはじめ建立の際に行なわれた写経や祈祷の内容、祈願などが詳細に刻まれており、無名の山伏たちの当時の信仰や儀式の様子が今に伝えられています。

5.丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

(国重要文化財)
本殿(1469年・国重要文化財)
楼門(1499年・国重要文化財)

高野山周辺の地主神、丹生都比売明神と、黒と白の二頭の犬を従えて狩人の姿で現れ弘法大師を高野山の地に導いたと伝えられる狩場明神(=高野明神)を主祭神とするこの神社は、紀ノ川中流域から高野山に向かう途中にある天野盆地(標高500m)の東部に鎮座しています。

弘法大師は高野山開創にあたり丹生都比売明神、狩場明神を真言密教の修禅道場である高野山の護法神と定め、高野山建設の最初に壇上伽藍へ両明神を勧請しました。これは外来の仏教(密教)が日本古来の神々と一体になった信仰である「神仏習合」の典型であり、天野の丹生都比売神社は真言密教の発展とともにその規模を拡大しました。

明治時代初期までは、現在見られる建物の周囲に弘法大師を祀る御影堂、多宝塔、山王院、不動堂などいずれも重要な密教伽藍が数多く存在しており、その様子を描いた古い絵図も遺されています。しかし神仏分離を機に明治5年(1872)、それらの建物ははすべて競売に付されて撤去され、仏像、仏具、経典類は高野山に引き上げられました。

本殿は楼門とともに国重要文化財で、第一殿に丹生都比売明神、第二殿に狩場明神、第三殿に気比明神、第四殿に厳島明神が鎮座しています。