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自然林に囲まれた古道
二ツ鳥居~大門

6.二ツ鳥居(ふたつとりい)

(国史跡)
二ツ鳥居(国史跡・1649年)

丹生都比売神社が鎮座する天野の里に至る山道と分岐する百二十町石付近の峠に並立している石造の鳥居で、弘仁10年(819)5月3日、弘法大師によって当初は木造で建立されたものと伝えられています。(紀伊続風土記)。

現在の鳥居は慶安2年(1649)5月、高野山補陀洛院の叟遍が建立したもので、高さ5.6m(一丈七尺)、幅4.7m(二間)の大型の両部鳥居です。

両部鳥居とは神仏習合で栄えた神社に多い四脚の稚児柱と柱頭に台輪がある形式で、日本の三大鳥居に数えられる厳島神社、春日大社、気比神宮も両部鳥居であり、和歌山県においては丹生都比売神社、丹生官省符神社、宝来山神社など木造、石造とも類例が多く現存しています。

7.西行堂(さいぎょうどう)

 
西行堂

花の歌人、西行法師は高野山で約30年間を過ごしたことが知られています。京都に残した妻と娘が西行に会うため、出家して高野山麓の天野に開いた庵の跡ともいわれるのがこのお堂です。妻と娘の墓と伝わる宝篋印塔(県指定文化財)も付近の民家の裏山に残されています。

8.垂迹岩(すいじゃくいわ)

 
垂迹岩

 この岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を、杖でつついて驚かせた僧が、丹生都比売神社からの帰途、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に巻き付いて待ち構えていたという伝説があります。僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社でご祈祷をして戻って見ると、大蛇はすでに消えていたといいます。

9.応其池(おうごいけ)

 
応其池
神田の里とゴルフ場の境目にあるこの池は、桃山時代に豊臣秀吉の高野山攻めを寸前のところで食い止め、近世高野山の発展の礎を築いた木食応其上人が、丹生都比売神社の御供田である神田の里のために築造した溜め池であると伝わります。

 

10.神田地蔵堂(こうだじぞうどう)

 
神田地蔵堂
古くから丹生都比売神社に米を献納してきた神田の里は、今もほのぼのとした田園風景に包まれています。その集落の外れを南北に通過する町石道沿いに子安地蔵尊を本尊とする地蔵堂があります。

紀伊続風土記はこのお堂について「縁起詳らかならず」としていますが「天野往還の人、多くは此の地にて休息す」としており、旅の休憩所としても利用されていたことがうかがえます。

11.袈裟掛け石と押上石

 
押上石(五十四町石付近)

高野山は明治時代まで女人禁制でした。弘法大師の母君、阿刀氏はある日、禁を破って五十四町石あたりまで登山してきました。ここより先は入れませんよと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。

そこで大師は石に袈裟をかけ「ここを越えられますか」と告げます。言葉どおり母が飛び越えようとすると突如雷鳴がとどろき、火の雨が降ってきました。

驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、その影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手形が残っているといわれており、ここからが高野山の清浄結界とされるゆえんです。また、石の下をくぐると長生きするといわれ、くぐり石とも呼ばれています。

12.金剛峯寺大門(こんごうぶじだいもん)

 
金剛峯寺大門(1705年・国重要文化財)

 町石道、有田道、龍神道の合流点にある高野山の表玄関です。高さ25.8mは日本では最大級で、門の両側には運慶の流れを汲む江戸時代の仏師、法橋運長と康意の作による金剛力士像が立っています。