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お菓子の神様の里から有田みかんの本場へ
所坂王子(ところざかおうじ)~山口王子(やまぐちおうじ)

25.長保寺(ちょうほうじ)

(国史跡)
本堂(国宝1311年)と
多宝塔(国宝1356年)
大門(国宝1295年)

拝の峠から西の山麓に見えるこの寺院は、長保2年(1000)、一条天皇の勅願により創建されたと伝えられます。

鎌倉時代に再建された本堂、多宝塔、大門は国宝、鎮守堂が国の重要文化財に指定されていますが本堂、塔、門の三件が国宝となっているのは世界遺産でもある法隆寺とここだけです。

長保寺は創建当時、天台宗に属していましたが、伽藍が再建された中世は真言宗で、この寺院には真言密教ゆかりの仏像、仏画、仏具も多数遺され、長い歴史を今に伝えています。

寛文6年(1666)初代紀州藩主・徳川頼宣は、長保寺を天台宗に改めるとともに、同家の菩提寺と定め、伽藍背後の山麓に墓地を創設しました。この墓地には将軍となった吉宗と家茂を除く藩主の墓石13基と正室の墓石3基が現存し、他に類を見ない四段構えの大規模な墓地として国史跡となり、県指定天然記念物「長保寺の林叢」とあわせて大切に保護されています。

27.太刀の宮(たちのみや)

太刀の宮

戦国時代から江戸時代初期にかけて、宮崎隠岐守定秋が有田市を拠点として支配していました。その三男、定直は元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣方についていたものの、内紛で大坂城から脱出し、有田市宮原に住んでいた姉むこを頼って熊野古道蕪坂を越えてきました。

日も暮れて定直は太刀の宮の前で休憩しているうち、そのままうたた寝をしていると夢の中で、追っ手が何人も来襲し、切りかかってきました。
突然のことで身動きがとれなかった定直ですがこの時、腰にさしていた刀がするりと抜け、敵を次々と切り倒していきました。

夢からさめると、周囲には二つに折れた定直の刀と、無数の死人が横たわっていました。しかも定直が拾い上げてみると不思議なことに刀は再びもとどおりにつながったといいます。
定直は生命の危機を救ってくれたこの刀を折継丸(おれつぐまる)と名付け、神社に奉納しました。それが現在の太刀の宮であり、病気快癒や厄除祈願のため、参拝者は木刀を奉納する慣わしとなっています。

28.爪書地蔵(つめがきじぞう)

爪書地蔵

二間四方のお堂の中に幅4mの自然石があり、阿弥陀如来と地蔵菩薩が平面に線刻されています。
弘法大師が爪で書いたという伝説もありますが、このお堂が文書にはじめて登場するのが永禄6年(1563)であることから、その頃の作であると思われます。

30.伏原の墓(ふしはらのはか)

伏原の墓

山口王子から紀伊宮原駅に向かう道沿いのミカン畑の中にあるこの墓石群は、熊野詣の途中で行き倒れて亡くなった旅人を供養するためにその親類縁者や地元の人々が建立した墓石や板碑を1ヶ所に集めたものです。墓石の中には、丹波篠山や遠江の地名も見られ、志なかばで倒れた遠来の旅人を弔うやさしい心が伝わってきます。