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潮騒が聞こえる海辺の古道
新宮~高野坂

34.熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)

(国史跡)

熊野権現降臨の地・神倉山のゴトビキ岩をご神体と仰ぐ原始信仰から、現在の熊野速玉大社の地に速玉神夫須美神を「両所権現」として祀る社殿を創建したのが景行天皇58年(西暦128)とされ、熊野速玉大社の歴史はここから始まります。

主祭神・速玉大神は、古代・中世には「早玉」と書かれ、熊野に降臨した神の御霊が光り輝き、力強く映える「映え玉」を表わすともいわれます。速玉大神の妃・夫須美大神も準主祭神であり、夫の速玉大神と一対で平安時代の神像が祀られています(国重要文化財)。両神像はわが国最古の大型男女神像としてもよく知られているところです。
神宝殿には皇族・貴族や有力武士・庶民が熊野詣の際寄進した数多くの国宝・重文が展示されています。

熊野速玉大社は平安時代後期から熊野十二社大権現とも呼ばれていますがここには現在、熊野三神に加え神倉の神も含め十六柱の神々が祀られています。現在の社殿は昭和26年(1951)の再建で、彩色、建造物の配置など、皇族貴族の熊野詣が最も盛んだった時代の威容が再現されています。

参道の中ほどにある梛の木は、平安末期、平重盛(清盛の嫡男)の手植えといわれ、幹周り6m、高さは20mを超え、梛の木としては日本最大で国の天然記念物です。

37.神倉神社(かみくらじんじゃ)

(県史跡)
神倉神社

熊野の地に初めて神々が降臨した場所は、『紀記』の神話に「天磐盾」として登場する神倉山であるといわれます。その山頂付近のゴトビキ岩をご神体として祭る神倉神社を元宮とし、権現山の東、熊野川河口に遷座した新しい宮が後に熊野三山の一つに数えられる熊野速玉大社です。

熊野速玉大社と神倉神社の祭礼である2月6日のお燈まつりでは、神の火をいただいた松明をかざした人々が鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝えられる石段を一気に駆け下りてきます。

36.阿須賀神社(あすかじんじゃ)

阿須賀神社

熊野川河口にほど近いこの神社は、背後にある円錐形の山、蓬莱山をご神体とした自然崇拝が起源と考えられ、一説には熊野で最古の神社ともいわれます。主祭神は事解男之命で、熊野三山の神々も祀られています。
境内からは弥生時代の竪穴式住居や、神仏習合の時代に祀られていた御正体(懸け仏)が発掘され、歴史民俗資料館で一般公開されています。

35.新宮城(しんぐうじょう)

(国史跡)
新宮城

新宮市街を見下ろす熊野川河口の高台にある新宮城(丹鶴城・国史跡)は、源頼朝の叔父にあたる新宮十郎行家が平安時代末期に築城したのが起源とされ、戦国時代末期の紀州攻めの後、豊臣秀吉の甥の浅野幸長の一族、浅野左近大夫によってはじめて本格的な城の建設が行なわれました。

しかし築城の途中に幕府から「一国一城令」が出されたため、元和元年(1615)に壊されましたが、2年後に再建が認められ、元和4年(1618)には紀州藩主の交代で紀州徳川家の附家老、水野重仲が新たに新宮領主となり、天守閣を中心とした城を15年かけて完成させました。

水野家は以来、約250年間にわたって紀州藩江戸家老を務めるとともに、新宮領主として君臨しました。
明治維新後、新宮領は新宮藩、新宮県と変遷したのち、和歌山県に帰属し、新宮城も用をなさなくなったため、石垣を残し遺構はほとんど壊されました。近年、新宮城の敷地から炭納屋跡が発掘され、新宮城が武力の象徴だけでなく、新宮領の経済を支える重要な拠点でもあったことがわかってきました。

38.ニシキトベと神武東征

日本書紀や古事記の神話によると、今から2700年ほど昔、神武天皇率いる東征軍は紀ノ川河口から紀伊半島を迂回して海路をたどり、暴風雨で二人の兄が溺死するという悲劇にあい、舟が流されながらも、ようやく熊野荒坂津(三重県熊野市)に上陸しました。この時、兵を率いて東征軍と戦ったのが土着豪族の女性酋長、ニシキトベです。

東征軍は天皇の命令に服従しなかったニシキトベを殺し、激しい戦闘で壊滅状態になりつつも再び舟で南下し、狭野(新宮市佐野)に上陸します。
ここから陸路で三輪崎を経て熊野神邑(現在の新宮市)に至り、天磐楯(神倉山のゴトビキ岩)に登り、熊野の高倉下という豪族に出会いました。

東征軍は高倉下の助けを得て立ちふさがる敵を次々となぎ倒してゆき、神の使いであるヤタガラスに導かれて進軍し、大和で即位しました。これが現在の天皇家の祖先、大和朝廷成立の神話として長く語り継がれています。

39.秦の徐福(しんのじょふく)

JR新宮駅から100mほど東、色鮮やかな中国風の楼門のある徐福公園は、長寿のシンボルともいえる楠の大木と、不老長寿の妙薬といわれる天台烏薬の木に囲まれています。その一角にはるか昔、中国から渡ってきたとされる伝説の人物、徐福の墓があります。

徐福の伝承は今から約2200年前、中国は秦の時代にさかのぼります。始皇帝は東方海上にあるという蓬莱の島から、不老不死の霊薬を持ち帰れと家来の徐福に命じます。そこで徐福は数百隻の船に数千人の男女、金銀財宝を積みこみます。そして東方を目指して船出し、新宮の地に渡来するのです。 彼は新宮で天台烏薬という薬木を発見しますが、再び中国に帰ることはありませんでした。この地に永住し、農耕、漁業、捕鯨、織物、紙すきなどの技術を人々に伝えたといわれます。

新宮市には徐福公園のほか、阿須賀神社境内に徐福の宮、徐福と旅をともにし殉死した七人の重臣を祭る重臣の碑があります。また、毎年8月には徐福をしのんで盛大な慰霊祭と花火大会を催しています。徐福が育んだ友交の絆は今も脈々と受け継がれています。