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紀の川市(粉河)

[1]粉河寺

  粉河寺
粉河寺

粉河寺は宝亀元年(770)に大伴孔子古によって創建されました。国宝の「粉河寺縁起絵巻」は本尊千手観音像の由来と観音にまつわる霊験記が記されています。
粉河寺中門にある「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主である治宝の直筆によるもの。三間一戸の楼門は、良質の欅材で丁寧に作られています。
宝暦10年(1760)建立の千手堂は、正面に千手千眼観世音菩薩を、両側脇壇には紀州歴代藩主とゆかりの人々の位牌が祀ってあります 。
本堂は大伴孔子古によって建てられ、風猛山粉河寺と称され、縦横4kmあまりある広大な境内の中心です。何度も焼失し、享保5年(1720)に再度建立されたのが、現在の本堂。江戸時代中期の欅材による、代表的な大寺院建築様式で、大門、中門、千手堂とともに国重要文化財に指定されています。
庭園は、桃山時代の枯山水の石庭として知られています。国名勝に指定されるなど、日本庭園の中でも独特の様式。紀州産の名石を使った石組みと植栽樹の配置、巨石の使い方などに特長があります。

粉河寺創設の伝説
猟師であった大伴孔子古がいつものように狩りをしていると、ある場所から光明を発しているのを発見しました。明くる日も、その次の日も光を放っており、「観音様がここにいるに違いない」と考え、その場所に藁葺きの小屋を建てたのが粉河寺の始まりです。そこへ一人の童男がやってきて、藁葺きの小屋へ入り、一体の仏像を彫り続けます。すると一週間後、黄金色に輝く千手観音が姿を現したので、童男は千手観音の化身だったのだろうと言われました。

また、河内の国にある長者がいました。その娘が気の毒なことに腫れ病にかかり、日本中の医者や祈祷士に治療をお願いしましたが、何の効果も無かったと言います。そこへ先の童男が訪れて「私が治してあげましょう」と言い、みんなを遠ざけて、一週間、お経を唱えたところ、きれいな元の姿に戻ったとのこと。喜んだ長者はお礼を差し上げたいと言いますが、童男は何も要求しません。それではとばかり、娘は自分が身につけていた真っ赤な袴と守り刀を渡したところ、童男は「紀州の粉河」と告げて去りました。

やがて冬が過ぎ、春が来て、長者はたくさんの家来を連れて遠路はるばる粉河へやってきます。迷いながらもこの辺りと思われる場所にたどり着くと祠があり、中には仏様があって、その側には娘が渡した真っ赤な袴と守り刀があったのです。驚いた長者はこれを機に頭を丸めて坊さんになり、粉河寺に深く帰依するようになったと伝えられます。

[2]鞆渕八幡(ともぶちはちまん)神社

  鞆渕八幡神社
鞆渕八幡神社

京都の石清水八幡宮の別宮で、もとは友渕荘16ヵ村の氏神でした。安貞2年(1228)に石清水八幡宮から神輿が送られました。
現存する日本最古の神輿である「沃懸地螺鈿金銅装神輿」は平安後期の傑作で歴史的、美術史的価値も高く、国宝に指定されており、秋祭りに一般公開されます。

真国川の北岸八幡山の南麓に鎮座している現在の本殿は寛正3年(1462)に再建され、以後20〜30年ごとに正遷宮が行われています。社蔵の文書では、南北朝時代から民衆の鎮守として信仰されていたと記され、国重要文化財に指定されています。
大日堂は神社境内の右よりにある、神宮寺当時の名残と思われる堂々とした建物。室町時代前期の建造物で、解体修理以前の写真では、軒もなく茅葺屋根となっています。
堂内に和唐折衷の須弥壇を設けて、屋根をつくらない三間厨子が置かれています。これも本殿と同じく、室町時代前期の制作と考えられ、国重要文化財となっています。

神輿にまつわる伝説
鞆渕の里にある兄妹がおりました。妹は鶴姫と言い、絶世の美女だったと言います。
そんな二人に対し、教育熱心な父親は勉強をさせようと厳しく接しました。頭の良い兄に対し妹は思うようにはいかず、いつも叱られてばかり。そんなある日、ついに父親は怒りのあまり、妹めがけて木の枕を投げました。枕は柱にあたって割れてしまいました。居たたまれなくなった妹は割れた枕の片割れを持って家出してしまいます。

月日は流れ、やがて京都に当時の天皇に寵愛を受けているたいへんな美女がいると評判が上がりました。しかも、どうやら紀州の人らしいとのこと。うわさを聞き付けた兄は、残されていた枕の片割れを持って京都を訪れました。身分の違いから難儀もありましたが、ようやく会う機会を得て、二人はお互いの枕を合わせて確認し、涙の対面となったのです。

この麗しい兄弟愛を耳にした天皇は、二人で紀州に帰り、地元、鞆渕の地を納めるように言ったとのこと。その土産にと与えられたのが、この沃懸地螺鈿金銅装神輿。この神輿を京都から山越え谷越え運んだことは、大変な労力であったことでしょう。道中には神輿が通ったことを示す地名も多く残っています。

[3]長田観音

  長田観音
長田観音

延喜21年(921)、念仏上人により開創された寺。紀の川市別所にあり、真言宗に属し、如意山厄除観音寺と言います。本尊は如意輪観世音菩薩で、霊験高く、一般に「厄除観音」または「厄観音」と呼ばれています。春には桜の名所として知られており、大勢の花見客で賑わいます。

如意山厄除観音寺の寺号と御詠歌
いのるみは いのちながたの かんおんじ やくをさつたの ちかいたのもし

これは寛平年間(889〜898)に宇多天皇が退位して仏門に入られたときに賜ったものと伝えられています。
勅願寺として堂塔が壮大で立派な伽藍を持っていましたが、天正13年(1585)、豊臣秀吉の焼き打ちにあい、本尊のみ難を逃れて草堂に安置されていました。元和8年(1622)、薩州の沙門、道誉尊者が諸国巡拝の折り、この草堂を見て深く歎き再興に尽力され、一堂を建立されました。

寛文年間(1661〜1673)、紀州藩主徳川頼宣公が厄除祈願に参拝され「人家に近きは仏地によろしからず」と、自ら約1km南の現在地を選び、本堂を建立。順次、塔其他を建立して、永世厄除祈願寺とされました。
現在の建物、宝物等は藩主や一般の人々の寄進によるもので、いまでも女性の19才、33才、61才、男性の25才、42才、61才の厄年の時に、その厄除祈願の為に米、餅などが多く寄進されます。
藩主の寄進による立派な三重の塔もありましたが、昭和三十六年(1961)の第二室戸台風で残念ながら倒壊し、その後再建されていません。
年々の旧初午と二の午には「厄除まいり」と称し、遠近より祈願者が参り、その開運厄除と交通安全を祈る寺として今日に至っています。
開運厄除と交通安全の祈とうは、申込み受付け時より、一年間厄除護摩を奉修し、祈願することを寺法としています。

お問い合せはe0625001@pref.wakayama.lg.jp
TEL:073-441-2785・422-4631(和歌山県観光交流課・(公社)和歌山県観光連盟)