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高野町
〜高野山内〜

[1]高野山の物語

  大門
大門

弘仁7年(816)6月に空海が高野山を賜うことを朝廷に願い、7月に許可されます。翌年に結界を行っています。結界というのは山岳霊場にお寺を建てる場合、その周辺を区切り内部を聖なる空間とすることです。これは密教にも、また日本人の民俗信仰の中にもありました。
その中で四つのタブーが行われていました。代表的なのは女人禁制でその他に、肉や魚を持ち込んではいけない、動物を飼ってはいけない(ただし一種類の動物は山の神の使として飼うことが許されました。高野山では犬です。)、大きな音を立ててはいけない、といったもの。これらは仏教の戒律ではありません。

なかでも有名なのは女人禁制ですが、政府が明治5年(1872)、万国博覧会を開催した時に、東京と京都が会場になりました。そこで比叡山が問題になりました。外国人の夫婦が来た場合、旦那さんは入山しても良いが、奥さんは許可されないという訳にはいかないのではないかということで、比叡山をはじめ日本各地の山岳霊場が女性に解放され、高野山も明治39年(1906)に女人禁制が解かれました。

1.大名墓(だいみょうばか)

  奥の院の墓石群
奥の院の墓石群

大名墓が多いことも高野山の特徴です。藩の数は徳川家、御三家を含め259ありますが、そのなかの109の大名が高野山に供養塔を建てています。その割合は42%でこうした例は他にはありません。文化的価値が高いとも言えるでしょう。墓の裏側には石屋さんの名前が記されているものもあり、一番多いのが大阪の16、泉州の3、江戸の2と、当山は8(但し出張所)あります。高野山に明治まで石屋はありませんでした。

石を運ぶ作業についてですが、川を上る時は船に綱をつけ数人が引き、山を登るときも人力に頼りました。大石塔を運ぶ図が「紀伊名所図会」にありますが、大きな石に穴を空け、大きな棒を突っ込んで担い棒をくくりつけ前後36人、合計72人で運ぶ様子が描かれています。

2.総本山 金剛峯寺(こんごうぶじ)

 

全国3600カ所の高野山真言宗の総本山です。豊臣秀吉が亡母の菩提寺として建立し、文久3年(1863)に再建されました。東西54m、南北63mの大主殿をはじめ、別殿、奥殿、新書院などが並びます。内部には天皇、上皇が行幸された際の応接間で、壁が総金箔押しの「上壇の間」、豊臣秀次が自刃したと伝えられる「柳の間」などがあります。お釈迦様の誕生をお祝いする「仏生会」や「常楽会」などの行事が行われます。

3.壇上伽藍(だんじょうがらん)

 
壇上伽藍は奥の院とともに高野山の二大聖地で、高さ50mの根本大塔や高村光雲作の阿しゅく如来像(※)のある金堂、御影堂などの総称と言えます。壇上は諸堂が集まっている場所、伽藍は寺の建物という意味を持っています。
(※正しくは、です。)

4.奥の院

  一の橋
一の橋

弘法大師のいます御廟があります。奥の院の一番奥には玉川にかかる無明の橋があります。ここで大師が参拝人を迎え、見送り給うと信じられています。石田三成が母の菩提を弔うために高麗版一切経6285巻を寄進した経蔵や灯籠堂、納骨堂などがあります。

5.消えずの火

 
奥の院、灯籠堂にある、900年以上前から絶えることなく灯されている火です。堂内には、この「消えずの火」を中心に2万5000基の万燈が吊るされてあります。高野山は灯明信仰でも日本一と言えるでしょう。
お問い合せはe0625001@pref.wakayama.lg.jp
TEL:073-441-2785・422-4631(和歌山県観光交流課・(社)和歌山県観光連盟)