わかやま記紀の旅 「記紀」に描かれた世界 天皇の物語編

大和国の拡大に貢献したのに...日本武尊[やまとたける]の悲劇的な末路。

天皇の系図

大和国の拡大に貢献したのに…日本武尊の悲劇的な末路

父から恐れられてしまい 都での安住も許されず…

父から恐れられてしまい都での安住も許されず...
第12代景行[けいこう]天皇には日本武尊という子どもがいました。彼の荒々しい性格に恐れをなした景行天皇は、日本武尊を西国の熊襲[くまそ]征伐に向かわせます。熊襲を征伐し、出雲で出雲建[いずもたける]も征伐して都へ戻った日本武尊。これで景行天皇の恐れも薄れ、落ち着いて暮らせると思ったのもつかの間、今度は東国平定を命じられます。
途中で伊勢にいる倭比売[やまとひめ]から天叢雲剣[あめのむらくものつるぎ](のちの草薙剣[くさなぎのつるぎ])と、万が一の時にと袋を授かり、東へ向かった日本武尊は、尾張(愛知県)、焼津(静岡県)、走水海[はしりみずのうみ]と足柄(ともに神奈川県)、酒折宮[さがおりのみや](山梨県)、信濃国(長野県)を次々と平定。その後、伊吹山(滋賀県)にいる山の神を素手で倒そうと向かいますが、山中で出会った白い猪を倒さず先へ進んだからか、急な氷雨で体調を崩して倒れてしまいます。そのまま都を目指して能煩野[のぼの](三重県)まで戻って来たところで絶命。亡くなった日本武尊は白鳥になり、大和国を目指したそうです。

古代史のターニングポイント大化の改新とは?

聖徳太子が目指した 天皇中心の国へ戻す

聖徳太子が目指した天皇中心の国へ戻す
第33代推古天皇の摂政[せっしょう]となった聖徳太子は、飛鳥の豪族・蘇我馬子[そがのうまこ]とともに天皇中心の政治を実現していきます。しかし聖徳太子亡きあと、蘇我一族が次第に政治の実権を握るようになり、馬子の孫の蘇我入鹿[そがのいるか]の時代には、蘇我氏が天皇をしのぐ権力と富を持つようになっていました。
これを快く思わず、聖徳太子が目指した天皇中心の政治に戻したいと考えていたのが舒明[じょめい]天皇の子・中大兄皇子[なかのおおえのおうじ]でした。彼は豪族の中臣鎌足[なかとみのかまたり]と、蘇我氏を倒す計画を立て、皇極天皇4年(645)、飛鳥板蓋宮[あすかいたぶきのみや]で蘇我入鹿を倒しました(乙巳の変)。
その後、斉明[さいめい]天皇のもとで天皇中心の国づくりに励んだ中大兄皇子は、すべての土地を天皇のものとする「公地公民制」や「班田収授法」などを施行し、九州を護る「防人[さきもり]」や都を守護する「衛士[えじ]」といった制度も定め、律令国家の基盤を作りました。これが大化の改新です。やがて中大兄皇子は都を近江大津宮に遷し、第38代天智[てんぢ]天皇として即位します。中臣鎌足はその功績によって藤原姓をもらい、のちの藤原氏の礎を築いたのでした。

皇位をめぐる親族対決 国を揺るがした 壬申の乱!

大海人皇子が大友皇子を返り討ちに
天智天皇は高齢になり、弟の大海人皇子[おおあまのおうじ]に皇位継承を打診します。本心では子の大友皇子[おおとものおうじ]に皇位を継がせたかったのですが、そのためには、周りから慕われていた大海人皇子が邪魔でした。そこで兄弟優先で継承してきた皇位を父子直系優先に改めたうえで、弟に譲位を打診。これを受けると罪に問われ、命を落とす危険があると感じた大海人皇子は譲位を辞退して出家し、吉野へ移り住みました。
その後は大友皇子が政治の実権を握りますが、ほどなく大友皇子側が兵を集め始めていることが大海人皇子へ知らされます。命が狙われていることを悟った大海人皇子は子どもたちと吉野を出て、戦うことを決意するのでした。そして天武元年(672)に開戦。近江国(滋賀県)を中心に戦闘が繰り広げられた末、瀬田の決戦を制した大海人皇子が勝利。大友皇子は自害し、大海人皇子は飛鳥浄御原宮[あすかきよみはらのみや]で第40代天武天皇として即位しました。

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