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高野山の二大聖地を歩く
壇上伽藍~奥の院

13.壇上伽藍(だんじょうがらん)

 
壇上伽藍(国史跡)

壇上伽藍は弘仁7年(816)から弘法大師が世界で初めて建設を開始した真言密教の大伽藍で、壇上とは大日如来が鎮座する壇、または修行の道場を意味します。

弘法大師が、大日如来を中心とした密教の教義や世界観を建造物や仏像、仏画によって目に見える形で表現しようとしたのがこの伽藍なのです。しかし資金不足などにより建設は遅々として進まず、その完成は大師の存命中ではなく、寛平年間(889~898)まで待たねばなりませんでした。

その後、近代に至るまで落雷や火災などにより根本大塔は五度、金堂は七度も再建を繰り返し、昭和58年(1983)、東塔の再建をもって現在の伽藍配置となり、国宝の不動堂を含め境内の建造物は19棟を数えます。

壇上伽藍は高野山真言宗発祥の地であり、現在も重要な儀式のほとんどは根本大塔や金堂で行なわれています。

14.三鈷の松(さんこのまつ)

 

遣唐使として唐の青龍寺で恵果阿闍利に真言密教を伝授された若き日の弘法大師は、勉学を終え日本へ帰国するにあたり、密教の修行にふさわしい場所はどこかを占うため、唐・明州の浜から日本に向かって密教の法具である三鈷杵を投げました。

帰国後、弘法大師は三鈷杵がどこに落ちたのかを探して高野山麓を歩いていました。このあたりは弘法大師自身が述べているように、山岳修行に明け暮れた少年の頃、訪れたことのある場所でもあります。

弘法大師はここで白と黒の犬二頭を従えた猟師と出会い、三鈷杵の落ちたところ、すなわち現在の高野山上まで導かれたと伝えられます。この猟師、実は高野山一帯の地主神・丹生都比売明神の御子神である狩場明神の化身であったのです。

高野山にたどり着くと、三鈷杵は松の木の枝にひっかかっていました。以来この松は三鈷杵と同じく三つ葉をもつようになったのだそうで、三鈷の松として今もその子孫が壇上伽藍の御影堂の前に植えられています。

こうして狩場明神は弘法大師を高野山の地に導くことによって真言密教を紀伊国に受け入れ、修業道場とすることを事実上、認めたのだといわれます。
のちに弘法大師は高野山を開くにあたり、寺院を建立するより先に両明神を壇上伽藍の地に護法神として勧請しました。

以来、密教とともに土着の神々を信仰するこの独特の信仰形態は、神と仏は本来一体であるとする、神仏習合の思想に発展します。
壇上伽藍はもちろんのこと、高野山にあるすべての寺院には現在も両明神をお祀りしていますし、高野山の僧侶は節目節目で丹生都比売神社(天野大社)にお参りするのが現在も続いています。

15.金剛峯寺(こんごうぶじ)

(国史跡)

金剛峯寺はもともと高野山全体の寺号ですが、明治時代以降、高野山の有力寺院の合併によって現在地に初めて単体で金剛峯寺を名乗る寺院が誕生しました。これが現在の高野山真言宗の総本山「金剛峯寺」なのです。

金剛峯寺は、大主殿、奧書院、奧殿、別殿、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂からなります。本坊は、高野山の寺院では最大規模の木造建築で、江戸幕府の御用絵師、狩野派による襖絵や、高野山独自の暖房施設「土室」、一度に二千人分のご飯が炊ける「二石釜」など、美術品から生活様式にいたるまで近世の文化や暮らしの様子がよくわかります。

16.金剛三昧院(こんごうさんまいいん)

(国宝)
金剛三昧院多宝塔
(国宝・貞応元年・1223年建立)

金剛峯寺の塔頭=子院のひとつで、鎌倉幕府の有力者の一人、北条政子が夫である将軍・源頼朝の菩提を弔うために行勇禅師に命じて建暦元年(1211)、高野山上に建立した禅定院を前身とします。

承久元年(1219)には息子で三代将軍の源実朝が暗殺されたこともあり、政子は禅定院を金剛三昧院と改称して規模を拡大、多宝塔、経蔵などの重要施設を相次いで建立しました。

以後、金剛三昧院は鎌倉幕府、室町幕府と密接な関係を保ちつつ、密、律、禅の三宗兼学道場として法燈国師覚心など多くの高名な学僧を輩出しました。

また、鎌倉時代に高野山で起こった木版印刷事業「高野版」の拠点ともなり、経典や文書の印刷を通じて高野山の信仰や教学の普及に大きな役割を果たしたことも特筆されます。

17.奥の院の文学碑めぐり

 
松尾芭蕉句碑(1775年)

高野山は古くから文人墨客も多く参詣していますが、その長い歴史の中で詠まれたすぐれた和歌や俳句の碑が山内に残されています。

江戸時代の俳聖・松尾芭蕉の句碑もそのひとつです。芭蕉は貞享5年(1688)春、伊賀上野で父の三十三回忌を終えたのち高野山を訪れています。『笈の小文』にある「父母のしきりに恋し雉子の声」は、おそらくその時に詠んだ句ではないでしょうか。

静かな杉木立の中、お互いに呼び合う雌雄の雉の声を聞いた芭蕉は父母の姿をしのんだのでしょう。江戸時代の有名な画家、池大雅の筆による俳聖・松尾芭蕉の句碑は、奥の院の参道のちょうど中ほどにあります。

18.貧女の一燈(ひんにょのいっとう) 

 

奥の院の最奥部、燈籠堂には男女を問わず縁者の遺骨を弘法大師のお膝元に納めるため、連日数多くの人々が訪れます。堂内には信者が寄進した数万基の燈籠が掲げられ、中央の簾ごしに弘法大師御廟が見えています。

この簾の正面左手前に、平安時代から消えることなく火をともす高さ1mの燈籠「貧女の一燈」があります。燈籠を寄進したのは和泉国坪井(大阪府和泉市)の里に住んでいた農家の一人娘、お照と伝えられます。

お照は平安時代中頃(11世紀頃)、女性の命ともいえる自らの長い黒髪を売り、赤ん坊のころから大切に育ててくれた養父母の供養のために燈籠を寄進し弘法大師のそばで永遠の灯火をともすことを発願したといわれます。

同じ時期に天野の長者も奥の院に数多くの燈籠を寄進したことにまつわるさまざまな伝説から「貧女の一燈、長者の万燈」という例えができたといわれます。

お金のある人がたくさんの寄進をすることは容易なことです。しかしお照のように貧しい人が寄進するということは大変なことです。その困難にも負けず、心のこもった供養をなしとげたお照のけなげな姿が美談として後世に語り継がれたのでしょう。