わかやま記紀の旅 ~古事記・日本書紀からたどる和歌山の旅~
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悲劇の皇子:有間皇子(ありまのみこ)

有間皇子の悲劇、それは大化の改新(たいかのかいしん)から始まります。
第34代舒明(じょめい)天皇の後、皇后が皇位につきました。皇極(こうぎょく)天皇[女帝]で、都は飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)です。大化の改新はその4年後になります。
皇極4年(645)6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)[葛城皇子(かつらぎのみこ)、後の天智(てんじ)天皇]、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって飛鳥板葺宮の大極殿(だいこくでん)での三韓進調(さんかんしんちょう)[当時、朝鮮半島にあった高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)三国の使者が入朝して調(みつき)<君主に奉る財物>を奉る]の儀式の場、それも皇極天皇の御前で、時の権力者であった蘇我入鹿(そがのいるか)が首を切られ、わずか一日で蘇我氏は滅亡します。世にいう乙巳(いつし)の変です。
皇極天皇の衝撃は大きく、その2日後の14日には弟の軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲りました。
孝徳(こうとく)天皇です。改新を推進した中大兄皇子は政治的配慮によって皇太子に、皇后には中大兄皇子の妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)がなりました。鎌足は内臣(うちつおみ)<大臣にあたる官職>です。
それが「鎮魂歌集的性格を持つ」万葉の時代の始まりとなりました。
孝徳天皇が難波長柄豊碕(なにわながらとよさき)の宮に都をうつして8年後の白雉(はくち)4年(653)中大兄皇子は、都を飛鳥にかえすことを勧めましたが、孝徳天皇は聞き入れず、それならばと天皇を残して、皇后を始め多くの人々を引き連れて飛鳥へ帰ってしまいました。孤立した孝徳天皇は煩悶(はんもん)<悩み苦しむ>のあまり1年後に妃の小足媛(おたらしひめ)とその間に生まれた有間皇子を残して崩御(ほうぎょ)されます。
そのあと皇極天皇が重祚(ちょうそ)<退位した天皇が再び位につくこと>して斉明(さいめい)天皇となるのです。
中大兄皇子は依然として皇太子にとどまっていました。時に有間皇子6歳、幼いとはいえ天皇の皇子でありました。当然、皇太子中大兄皇子と並ぶ皇位継承の有力者としてライバル関係が生じ、世の注目を集めることとなりました。それが何を意味するかは自明の事、悲劇の幕開けです。
中大兄皇子は蘇我入鹿を討った後、大化元年(645)9月には兄である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を謀反を企(くわだ)てたとして死罪に処していますし、同5年(649)には妃の一人である遠智娘(おちのいらつめ)【造媛(つくりひめ)】の父、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)をも讒言(ざんげん)<事実を曲げ、いつわって人を悪く言うこと>によって自殺に追いやっています。有間皇子に累が及ぶのは時間の問題でありました。
「日本書紀」斉明3年(657)9月の条には「有間皇子性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うはりくるひ)すと云々」、利口な性格で病であるように装ったといいます。常に身を危険にさらされ、こうした保身までしなければならなかったことも辛いけれど、いつまでも病人のまねをし続けることはもっと辛いことであったに違いありません。皇子は牟婁の温湯(むろのゆ)<和歌山県白浜湯崎温泉>に出かけて療養してきたように見せかけ、かの地のありさまを誉めて「あのあたりの風光に接しただけでおのずから病気が癒(いや)されました。天皇も是非お出かけになられてはいかがですか」と奏上したところ、孫の建王(たけるのみこ)をわずか8歳で亡くして哀しみに沈んでいた天皇は大いに喜び、翌4年10月皇太子以下を引き連れて牟婁の温湯に行幸しました。事件はその留守中に起こりました。
11月3日蘇我馬子(そがのうまこ)の孫にあたる留守官の蘇我赤兄(そがのあかえ)<乙巳の変で討伐された蘇我入鹿も蘇我馬子の孫であり、赤兄とは従兄弟の関係にある>が有間皇子邸を訪れ、天皇の三つの失政をあげて謀反をそそのかしたのです。
「大きな倉庫(くら)を建てて、人民の財物を集積することがその一」
「延々と水路を掘って、公の食料を消費することがその二」
「舟に石を乗せて運び、それを丘のように積み上げることがその三です」
皇子は赤兄の言を信じ、心を許したのでしょうか、5日には赤兄の家に行き、謀議をめぐらしました。その時、有間皇子の脇息<脇に置いてもたれかかるための道具>が折れたのを不吉の前兆として、挙兵することを断念しました。その夜半、生駒の市経(いちぶ)<一分、奈良県高取町の市尾とする説もある>にある皇子の邸を赤兄の兵が取り囲み、皇子は捕らえられ、共謀者4人とともに牟婁の温湯に護送されてしまいました。「謀反の心あり」として赤兄から報告があり、既に討伐の命が出されていたのでしょう。
9日、護送の途次(とじ)、磐代(いわしろ)<岩代、和歌山県日高郡みなべ町>の浜で詠んだのが、万葉集中白眉<最も優れているもの>といわれる短歌二首であります。
磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む(万・巻2-141)
(岩代の浜松の枝を今、引き結んで幸を祈るのだが、もし命があった時には再び帰ってこれを見よう)
家(いへ)にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る(万・巻2-142)
(家にいると器に盛って神に供えるご飯を、こうして心にまかせぬ旅にいるので椎の葉に盛ってお供えすることだ)
一見、騎旅(きりょ)の歌のようであるのに、どうして万葉集の「挽歌(ばんか)<人の死を悲しみ悼む歌>」の部の、それもその冒頭に載せてあるのでしょうか。題詞に「有間皇子 自ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首」とある「自傷」とはいったい何を悲しんでいるというのでしょうか。それがこの「日本書紀」の斉明天皇3年9月から同4年11月のわずか一年余りの出来事と深い関わりがあるのです。
松の枝を引き結ぶのは、草の根や衣の紐(ひも)などと同様、それらに自らの魂を封じ込めて、旅の安全を祈る古代人の風習であり、作者有間皇子が反逆の罪で捕らえられ、護送されてゆく途中の作でありますから、淡々とした中にも、異常な運命に耐えつつ、道の神に対して一縷(いちる)の望みを託そうとする心情があわれでなりません。こうしてみると一首目の「飯」も手向(たむ)けの神饌(しんせん)<神に供える供物>であり、旅の途中であるから椎の葉に盛って食べなければならないというような単純な悲しみではないのです。
11月9日の夕べ、牟婁の温湯に到着した有間皇子を待っていたのは中大兄皇子の厳しい尋問でありました。「なぜ謀反を企てたのか」との問いに有間皇子はただ一言
「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない)
とだけ答えました。
11月11日には再び都へ送還され、途中自ら結んだ松の枝は目にしたものの、藤白の坂<和歌山県海南市藤白>で絞首させられ、あたら19歳の若い命を、あたかも赤い椿の花を手折(たお)るように散らしたのでありました。また、中大兄皇子の命を受けた丹比小沢連国襲(たじひのおざわのむらじくにそ)に襲われ、従者の塩屋連[制※]魚(しおやのむらじこのしろ)と舎人(とねり)の新田部連米麻呂(にいたべのむらじこめまろ)は斬られ、守君大岩(もりきみおおいわ)と坂合部連薬(さかいべのむらじくすり)は流罪となりました。
藤白の み坂を越ゆと 白妙(しろたへ)の わが衣手(ころもで)は 濡(ぬ)れにけるかも(万・巻9)
この歌は、皇子が藤白坂で処刑されて43年後の大宝元年(701)、持統上皇・文武(もんむ)天皇<持統上皇の孫>の牟婁の温湯行幸に従った大宮人(おほみやひと)<宮中に仕える人>の歌です。時代は変わって、皇子への同情と追慕(ついぼ)が公然と表出できるようになり、19歳という若さで悲運に仆(たお)れたのを惜しんでのあまり、こうした歌が多く歌われました。坂に「み」と付けたのは、華やかな歴史の舞台から突き落とされ、非業(ひごう)の死を遂げた皇子の霊が、熊野への入口という重要な位置を占める藤白坂の道の神としての存在となり、この種の歌を手向(たむ)けて通らねばならなかったことを意味しています。
※「魚」へんに「制」と書きます。
ゆかりの地
※イラストはイメージです。
