1200年の時を越える旅 高野山開創1200年記念大法会

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高野山と弘法大師

標高約900m、蓮華のように八葉の峰々に囲まれた山上盆地に広がる高野山は、弘法大師・空海が開いた日本を代表する真言密教の聖地です。
弘法大師は、密教の道場を開くのにふさわしい地として、都の喧噪から遠く離れた紀伊山地の雄大な自然に抱かれた場所を選びました。国、社会の安泰を祈り、人々のために活躍できる人材も育てたいという思いで活動します。そして、世の中の迷える人や苦しむ人を救うため永遠に祈り、深い瞑想に入りました。
こうして弘法大師は奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っているという大師信仰が生まれました。
現在も高野山は、僧侶たちが修行を続ける学びの場であるとともに、多くの人々の信仰を集め、親しまれています。

丹生明神と狩場(高野)明神の導き

密教の根本道場の地を求めていた弘法大師は、山中で狩人に化身した狩場明神に出会います。
弘法大師は狩人が従えていた黒と白の犬に導かれ、天野の社で丹生明神に出会い、ご神領である「高野」を授かります。後に弘法大師は高野山の中心である壇上伽藍に御社を建て、両神を鎮守の神として祀られました。

飛行の三鈷

弘法大師は、唐の名僧「恵果阿闍梨[けいかあじゃり]」から密教の奥義を伝授され、日本仏教史に残る最高の栄誉を受けます。帰国の際、唐の明州の浜より真言密教を広めるにふさわしい場所を求め、日本へ向けて法具である三鈷杵[さんこしょ]を投じられました。
後に弘法大師は高野山(現在の壇上伽藍)で松の枝に架かっている三鈷杵を見つけたといわれています。

ありがたや たかのの山の 岩かげに
大師はいまだ おわしますなる

高野山霊宝館副館長 山陰 加春夫(やまかげ かずお)氏

弘法大師・空海とは

弘法大師・空海は、宝亀5(774)年、讃岐国多度郡[さぬきのくにた どのこおり](香川県善通寺市)生まれ。延暦23(804)年、唐(中国)に留学して、真言密教の最高権威(第七祖)恵果阿闍梨[けいかあじゃり]に出会い、その正式な継承者(第八祖)となり、大同元(806)年、帰国しました。平安時代初期の日本が生んだ最高の哲学者にして、美しい文章を流麗な筆致で綴[つづ]る超一流の文学者。人々のために泉を掘り当て、池を修築する社会事業家。そして何よりも生きとし生けるものの幸せをひたすら祈る宗教者でした。弘仁7(816)年、高野山に「修禅[しゅぜん]の一院」金剛峯寺[こんごうぶじ]を創建。承和2(835)年、同山にて入定[にゅうじょう]。

真言密教とは

一般の仏教では、人が悟りに達するには、気の遠くなるほど長い時間と厳しい修行が必要であると教えます。これに対して真言密教では、この身このままで仏になることができる(即身成仏[そくしんじょうぶつ])と説きます。すなわち、手に印を結び、口に真言を唱え、一心不乱に本尊を観念するならば、その人が本来持つ仏性[ぶっしょう]が顕現[けんげん]して、悟りを得ることができるとするのです。

高野山とは

高野山は、高さ16丈(約48.5m)の根本大塔が聳[そび]える壇上伽藍[だんじょうがらん]を本部にした「学問の道場」であるとともに、奥之院の弘法大師御廟[ごびょう]を中心にした「信仰の霊場」です。

16世紀に来日したイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルは、高野山は「中世日本の六大学」の一つであると記し、同時期の宣教師、ルイス・フロイスは、「高野山は、日本中でもっとも多くの人々が参詣する巡礼地の一つである」と述べています。

弘法大師は今もなお奥之院の御廟内に生身[いきみ]のままでおわされていて、56億7000万年後に弥勒菩薩[みろくぼさつ]がこの世に出現するその時まで、人々を救い続けている、とかたく信じられています。

『 平家物語と高野山 』

高野山は、帝城[ていせい]を避[さ]って二百里[じはくり]、郷里[きょうり]をはなれて無人声[むにんじょう]、清嵐梢[せいらんこずえ]をならして、夕日[せきじつ]の影しづか也。八葉[はちよう]の嶺[みね]、八[やつ]の谷、まことに心もすみぬべし。花の色は林霧[りんぶ]の底にほころび、鈴[れい]の音は尾上[おのえ]の雲にひびけり。瓦[かわら]に松おひ、墻[かき]に苔[こけ]むして星霜久[せいぞう]しく覚えたり。

【高野山は宮城を離れて二百里、人里を離れて人声もしない閑寂の地である。青葉をわたる山風が梢を吹きならして、夕日の光も静かである。八葉の峰、八つの谷があり、まことに心も澄むような霊地である。霧のおおう深い林の奥に花が咲き、僧のふる鈴の音は山頂の雲に響いている。瓦に松が生え、垣根に苔がむして、長い年月を経ているように思われた。】

〔『平家物語(覚一別本)』巻十「高野巻」。本文と現代語訳は、市古貞次校注・訳『平家物語』
(『新編日本古典文学全集』四五・四六、小学館、一九九四年)による。〕

人々を高野山へと誘[いざな]う屈指の名文である。『平家物語』は、1240年代ごろにはその原形ができていたといわれる軍記物語。その中に、

  1. (1)大塔修理を終えた平清盛が、奥之院で弘法大師に出会った話、
  2. (2)俊寛僧都[しゅんかんそうず]の侍童有王[ありおう]が主人の遺骨を奥之院に納め、自身は蓮花谷[れんげだに]で法師になった話、
  3. (3)一ノ谷で平敦盛[あつもり]を討たざるをえなかった熊谷直実[くまがえなおざね]が、蓮花谷に住んで敦盛の後世を弔[とむら]った話、
  4. (4)横笛との恋が叶わず出家した滝口入道(斎藤時頼)が、清浄心院谷[しょうじょうしんいんだに]に居を構え修業に専心した話、
  5. (5)屋島から戦線離脱した平維盛[これもり]が高野に登り、滝口入道を先達[せんだち]にして堂塔巡礼・ 奥之院参拝を行った後、同地で出家した話、

等々、高野山に関係する印象的なエピソードが鏤[ちりば]められている。

高野山とゆかりの人物

歴史を飾った人物たちとのつながり

平清盛

平安時代、栄華を極めた平清盛は、久安5(1149)年、落雷で焼失した根本大塔を再建するため、鳥羽上皇の命により建立奉行を務めました。完成時に高野山を参詣した清盛は、桜の前で一人の老僧に出会います。その老僧は大塔の修理のお礼を述べ、厳島神社の修理を清盛に勧め、姿が見えなくなりました。清盛はこの老僧は弘法大師の化身であったと信じ、ますます信仰を深め、金堂に曼荼羅を奉納しました。
その後、清盛が老僧と出会った桜の木は「対面桜」と呼ばれ、奉納した曼荼羅は、胎蔵界大日如来の宝冠に清盛自身の頭の血を混ぜて描いたとされ、「血曼荼羅」とも呼ばれています。

重要文化財 両開[りょうかい]曼荼羅図(血曼荼羅)
左:金剛界 右:胎蔵界

豊臣秀吉

戦国時代、秀吉の紀州攻めが始まり、精強な鉄砲部隊を編成する根来衆・雑賀衆が攻略され、次は高野という時、当時高野山にいた武士出身の僧・応其上人[おうごしょうにん]が秀吉のいる粉河寺へ和議に赴き、高野山は存続することができました。
以後、秀吉は応其上人に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、高野山内に青巌寺[せいがんじ]【総本山金剛峯寺の前身】を建てました。
また、金剛峯寺「柳の間」は、豊臣秀次(秀吉の養子)が自害したことから「秀次自刃の間」ともいわれています。

山本探斉による柳鷺図[りゅうろず]が
描かれている柳の間

弘法大師ゆかりの地

弘法大師の偉大な存在を伝承

根來寺(岩出市)

根來寺を開創した覚鑁[かくばん]上人は、20歳で高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。保延6(1140)年に根来に移り、室町時代末期には領地72万石、寺院数2700を数え隆盛を極めました。大塔は日本最大の木造多宝塔で国宝、大師堂は重要文化財です。
弘法大師をまつる大師堂は、豊臣秀吉の紀州攻めの時も焼失をまぬがれた根來寺で最も古いお堂です。

龍神温泉(田辺市)

龍神温泉はおよそ1300年前、大和の役行者[えんのぎょうじゃ]が見いだし、それから約100年後、弘法大師が難陀龍王[なんだりゅうおう]のお告げによって温泉を開いたとされています。難陀龍王は龍の神様であったことから「龍神温泉」と名付けられ、今では川中温泉(群馬県)、湯の川温泉(島根県)と並び、「日本三美人の湯」として知られています。

橋杭岩(串本市)

串本から大島に向かい、約850mの列を成して大小40余りの岩がそそり立っている橋杭岩は、国の名勝・天然記念物に指定されています。 海の浸食により、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩には、その昔、弘法大師が天の邪鬼と橋を架けることを競い、一夜にして立てたという伝説も残っています。