熊野御幸の足跡をたどる旅 ―祈りの道「熊野古道」をゆく―
【熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり】

熊野古道とは、京都をはじめ各地から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社・那智山青岸渡寺)へと続く参詣道で、そのうち中辺路や大辺路の一部などが「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。熊野古道は、古くから人々の祈りを運び、再生の地へと導いた“よみがえりの道”。都から高貴な方々が熊野を目指して旅をした「熊野御幸(くまのごこう)」こそが、この道のはじまりなんです!

熊野御幸の足跡をたどる旅 ―祈りの道「熊野古道」をゆく―【熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり】

高貴な方々が命がけで訪れた“よみがえり”の聖地

「熊野御幸(くまのごこう)」とは、上皇や法皇が都・京都から大阪を経て、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社・那智山青岸渡寺)を目指した壮大な巡礼の旅。巡礼の旅は日本における観光のはじまりと言われ、熊野詣が起源といわれています。そんな熊野御幸の歴史は、平安中期の宇多上皇から始まり、白河・鳥羽・後白河など多くの上皇がおよそ370年間にわたり、100回以上この旅を重ねました。険しい道を行くことで「生まれ変わる」と信じられた熊野詣は、やがて貴族から武士、庶民へと広がり、江戸時代には「蟻の熊野詣」と呼ばれる一大ブームに。今もなお、熊野の神々への祈りは、祈りと再生の道として人々の心を惹きつけています。

なぜ上皇は熊野を目指したのか?

  • 「令和の熊野詣」(R5年度実施 熊野御幸再現ウォークイベント)の様子
  • 「令和の熊野詣」(R5年度実施 熊野御幸再現ウォークイベント)の様子

天皇は、皇祖である天照大神を祀る伊勢神宮を尊崇されました。そこで天皇の位を退いた上皇が、自らの祈りの場として選んだのが、“現世利益と来世安穏”をもたらす熊野の神と仏でした。熊野詣は単なる宗教儀式ではなく、自身と民の安寧、そして再生を願う旅。後白河上皇は生涯に33回も参詣を行ったとされており、その「33」という数字は、観音信仰における象徴的な数でした。熊野御幸の最終目的地である那智山青岸渡寺は、西国三十三所の観音霊場の第一番札所でもあり、熊野信仰と観音信仰が一体化した信仰の深さを物語っています。

京都・城南宮から始まった「熊野御幸」

平安時代後期、白河上皇が譲位後に院政を敷き、京都の南・鳥羽の地に造営したのが、壮麗な離宮「鳥羽離宮(城南離宮)」でした。この地は熊野詣の出発点とされ、歴代の上皇たちはここから熊野三山を目指して旅立ったのです。熊野御幸は往復600km、20〜30日に及ぶ過酷な旅。だからこそ、出発前には7日ほどかけて身を清め、心を整える儀式が欠かせませんでした。屋敷にはしめ縄が張られ、朝夕には冷水を浴びる「水垢離(みずごり)」を行い、白装束に着替え、陰陽師がお祓いの言葉を奏上して旅の無事を祈ります。これが、「祈り」と「再生」の旅の始まりとなりました。

【城南宮・鳥羽宮司にお話を聞きました】
藤原定家も感動した熊野の景色

「後鳥羽上皇の4度目となる熊野詣にお供した藤原定家は、初めての長旅に大いに心を躍らせ、意気揚々と出発されたそうです。和歌の才に恵まれた定家は、和歌の神を祀る住吉大社での参詣や、峠から望む紀伊の海に深く感銘を受け、その想いを日記『明月記』に記しています。自然とともに生きていた平安の人でさえ、心を震わせた風景。その道を現代の私たちが歩けば、きっと心身を整える新たな感動が待っています」。そう語ってくれたのは、城南宮の鳥羽宮司。さらに今年の春には、ご自身も熊野三山を訪れ、桜の咲き誇る風景を堪能されたとのこと。「四季の移ろいを感じられ、何度訪れても本当にいい場所です」と、穏やかな笑顔で話してくださいました。

祈りの証を手に熊野古道へ

「熊野にお参りした上皇や女院の記録には、“宝印”と“梛の葉”を授かったことがたびたび登場します」と話す鳥羽宮司。梛の葉は、枯れても色褪せず緑を保つ生命力の象徴とされ、古来より熊野の神々から授かるお守りとして重んじられてきました。「宝印はその名の通り“印”で、記録によれば、山伏が参詣者の額に押していたとも伝わっています。本来、宝印は特別な行事の中でしか授与されないものでしたが、熊野ではいつでも授かることができました。そのことから、熊野が「御朱印」のはじまりの地とも言え、現代にも受け継がれているご加護の証となっています。御朱印帳を手にして、かつての参詣者たちがお参りした社寺の「印(いん)」をいただくことで、静かな巡礼体験が味わえます」。そのほか、城南宮ではかつての出立の儀式を偲ぶ「一願成就御守」を授与しています。八角の金剛杖をかたどった形が印象的。お守りの内側に願いを書き、旅の始まりに身につけることで、あなただけの“熊野御幸”が、ここから始まることでしょう。

熊野古道の道標「九十九王子」を辿る

熊野古道には「王子」と呼ばれる小さな社が点在し、参詣者は道中、一社ずつ祈りを捧げながら歩きました。諸説ありますが、もともとは地元の人々が祀っていた在地の神々が、平安時代の熊野御幸の隆盛とともに、旅の節目を司る王子社として整えられたと伝えられています。儀式が行われ、舞が奉納された王子は、旅そのものを“祈りの連続”へと昇華させました。今も道沿いに残る王子社跡は、過去と現在を結ぶ静かな道標。王子を辿りながら熊野を目指すことは、自然と向き合い、時を越えて祈りをつなぐ、深い巡礼の体験です。

石畳や森が語る、熊野詣の記憶

熊野御幸の出発点・城南宮を出て、熊野三山を目指す道中には、かつての巡礼者たちの祈りと足跡が今も息づいています。中でも中辺路は、険しい山道と穏やかな里山が交錯し、熊野詣の原風景が色濃く残るルートです。那智へと続く「大門坂」はその象徴。約650メートルの石畳と杉木立が続くこの参道を歩くと、自然と心が澄み、巡礼者の気持ちに近づいていくような感覚を覚えます。最後の王子・多富気王子跡などは、信仰と文化が織りなす歴史の証人です。

【熊野本宮大社】
よみがえりの聖地・熊野で新たな一歩を

熊野御幸において、熊野本宮大社は巡礼者が最初にたどり着いた聖地でした。ここは、過去を脱ぎ捨て、未来に向かう「よみがえり」の象徴で、上皇や法皇たちは魂の再生を願ったとされています。かつての社は熊野川の中洲・大斎原に鎮座しており、参拝には川の水で水垢離をしたとされる神聖な地。熊野詣とは、神に祈るだけの行為ではなく、自らの内面と向き合い、生き直すための旅でもありました。本宮はその思想を体現する場であり、時代を越えて変わらぬ祈りの気配が、深く、静かに満ちています。

【熊野速玉大社】
悠久の熊野詣での心に触れる

熊野川の河口付近にありながら急峻な権現山(神倉山)の中腹にある神倉神社。御神体である霊石・ゴトビキ岩は、熊野の神々が降り立った場所とされ、そこから生まれた信仰がこの地に息づいています。神倉山に降臨した熊野権現(神々)を勧進するため社殿を造営したのが現在の熊野速玉大社です。神仏が一体とされる熊野権現信仰において、速玉大神は薬師如来と結びつき、苦しみや煩悩からの解放をもたらす存在とされました。現代においてもなお、この社に立つと、旅の決意と再生への静かな覚悟が、そっと心に宿るようです。

【熊野那智大社・那智山青岸渡寺】
大滝と観音が導く彼岸の扉

熊野那智大社は、熊野御幸の旅路の中で「現世」の縁を結ぶ聖地とされてきました。那智の大滝は古代から神そのものであり、滝を礼拝の対象とする自然崇拝に根ざし、万物生成の根源となる力だと信仰されてきました。隣接する那智山青岸渡寺は西国三十三所の第一番札所で、千手観音を本尊とし、熊野信仰と観音信仰の融合を体現する場所。那智の滝の轟音を前にすると、自然と自身の内面を見つめ直す静かな時間が生まれます。そして、浄土への門をくぐる覚悟を、そこで新たにする心持ちに。今も神と仏が共存する空間であり、熊野信仰の原始の形がもっとも残るのが、この那智の地です。

【那智山青岸渡寺・高木住職にお話を聞きました】
癒しを求めて熊野へ。今を生きる私たちの「御幸」

「熊野に来られる方は、癒しを求めておられるのではないでしょうか」。そう語ってくださったのは、那智山青岸渡寺の高木住職。神と仏が共に祀られた熊野の信仰は、大自然の中で静かに続いてきました。907年の宇多上皇から1281年の亀山上皇に至るまで、熊野御幸は100回以上にわたって行われたといいます。「いつの時代も誰にでも悩みや苦しみはある。昔の上皇も、今の私たちも同じです」。煩悩を抱える人間が大自然に身を置き、神仏と向き合い、自らを見つめ直すこと、それが熊野詣の本質なのだと住職は言います。今の時代もまた、マインドフルネスや心のリトリートが求められる時代。「熊野はどんな人でも分け隔てなく受け入れてくれる場所なのです」。高木住職は、穏やかに微笑まれながら、そう語ってくださいました。

全ての人を受け入れる、懐の深い熊野

熊野の地は、古くから女人禁制などの制限もなく、身分や思想などに関わらず、どのような人でも受け入れてきた場所。「熊野は1200年以上前から、宗教・民族・性別を問わず、訪れる全ての人の“よみがえり”を認めてきました。神仏習合の象徴でもあるこの地では、今もなお神と仏が共存しているのです。いま世界を見渡してみれば争いごとが絶えない時代ですが、この熊野はさまざまな宗教や人々を認め合う寛容の地でもあります。多くの人が熊野に訪れていただいて、認め合うという精神を感じとっていただき、熊野から世界平和を発信していただけたらと思います」。多様性が大切にされるいまの時代にこそ、熊野はその象徴となりえる地。日々の生活に疲れた心をそっと解きほぐしてくれる場所なので、この機会にぜひ熊野の地を訪れてみて。

Column

熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり

2024年9月からスタートした「熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり」は、京都から熊野への熊野御幸ゆかりの地を御朱印をいただきながら巡る企画。特別御朱印帳「熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり帳」が配布されており、企画に参加している11社寺で御朱印を授かれるほか、城南宮、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、那智山青岸渡寺の5社寺では、それぞれ記念ステッカーを貰うことができるんです!(無くなり次第終了)

時の上皇が都から熊野三山に詣でた「熊野御幸」に思いを馳せながら、京都、大阪、和歌山へとつながる旅路を楽しんでください。


熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり

都から高貴な方々が熊野を目指して旅をした熊野御幸のルート

「熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり」に参加している11社寺

「熊野御幸ゆかりの御朱印めぐり帳」は各社寺の授与所に申し出ると入手できます。

城南宮
794(延暦13)年、平安京の南に国と都の守護神として創建された。平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇が城南宮を中心に鳥羽(城南)離宮を造営し院政の拠点とすると、離宮の鎮守として厚く崇敬された。離宮の殿舎は熊野御幸に先立ち心身を整える精進屋とされ、出立の儀式を行い、鳥羽の津から舟で淀川をくだり熊野へ向かった。城南宮は今も旅行や引越安全の「方除の大社」と信仰を集めている。
住所:京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
電話番号:075-623-0846
城南宮
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石清水八幡宮
お宮が鎮座する男山は、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる交通の要衝。熊野御幸では、鳥羽の陣から船で出発した上皇一行がこちらで奉幣(幣帛=へいはくを奉ること)を行うのが慣例だった。平安中期には朝廷による請願で、八幡大神の神威をもって承平天慶の乱を平定。国家鎮護の宮として厚い崇敬を受け、天皇の行幸や上皇の御幸は240回余りに。伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟(そうびょう)とされる。
住所:八幡市八幡高坊30
電話番号:075-981-3001
石清水八幡宮
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和宗総本山 四天王寺
聖徳太子が建立した、日本仏法最初の官寺。熊野御幸を先駆した花山法皇と縁が深く、19歳で仏門に入った法皇が百石もの米を寄進した記録も。石鳥居がそびえる西門は古来より極楽浄土の東門にあたると信じられ、現世の浄土を求めた熊野御幸でも信仰の対象に。現在も南大門にある熊野権現礼拝石は、熊野詣での道中安全を祈った場所。一方で、拝めば熊野参詣の代わりになるとも言われている。
住所:大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
電話番号:06-6771-0066
和宗総本山 四天王寺
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住𠮷大社
後鳥羽上皇の熊野御幸に伴った藤原定家が、「和歌の神である住吉の社に参拝することは、一身の幸せ」と『熊野御幸記』に綴ったように、古代から歌人の信仰を集めた住𠮷大社。当時は白砂青松のほとりに社が建ち、その風光明媚な景色は御一行の歌心をかき立てたはず。境内にある末社の新宮社には、熊野参詣道に沿って設けられた九十九王子の一つ、津守王子社が現在も祭られている。
住所:大阪市住吉区住吉2-9-89
電話番号:06-6672-0753
住𠮷大社
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日前神宮・國懸神宮
創建2600余年と伝わる、紀伊国一之宮。全国でも珍しい二社一体の大社で、一つの境内に日前神宮と國懸神宮という二つの大社が鎮座する。共に御祭神は天照大神。各社に御神体として祭られる日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)は、『日本書紀』によれば天照大神の御鏡であり、三種の神器に次ぐ宝鏡とも。熊野御幸の際は再拝を二度行う最も丁寧な拝礼が行われるなど、その格式は別格。
住所:和歌山市秋月365
電話番号:073-471-3730
日前神宮・國懸神宮
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藤白神社
熊野へ続く道々に、熊野権現の分身を祭った九十九王子。なかでも格式高い五つの王子の一つ、藤白王子がこの地にあった。熊野御幸の際は上皇方が必ず宿泊し、神楽や経供養、歌会、相撲など特別な催しも行われた。時を同じくして、熊野から移り住んだ鈴木氏が熊野信仰を全国に普及する拠点に。境内の権現堂には、平安時代後期の作と伝わる熊野三山の本地仏が現存し、熊野との深い繋がりを伝える。
住所:海南市藤白466
電話番号:073-482-1123
藤白神社
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鬪雞神社
創建は419(允恭天皇8)年。熊野御幸が度々行われた白河上皇の時代(1089~1129)に熊野三所権現を勧請したことで、熊野三山の別宮的存在に。熊野御幸に際し、上皇が参籠宿泊して心願成就を祈願した。ユニークな社名は、壇ノ浦の戦いを目前に源平双方より援軍を求められた熊野別当の湛増(たんぞう)が紅白の鶏を闘わせ、その神意を元に源氏に加勢、勝利に導いたという『平家物語』にも記される故事から。熊野本宮大社と同じ御姿の社殿は荘厳で、境内には湛増・弁慶父子の像も。
住所:田辺市東陽1-1
電話番号:0739-22-0155
鬪雞神社
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熊野本宮大社
熊野古道の中でも特に険峻な山道が続く中辺路を経てたどり着く本宮の神々しさは、後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家が『明月記』で「感涙禁じ難し」と記したほど。古代~中世の時代には、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる熊野川の中洲に鎮座し、着物を濡らし水垢離をしてのみ参詣が許されたという神聖な場所だった。明治時代の大洪水の後に社殿は近くの山手へ移されたが、現在も熊野三山の聖地らしい風格が宿る。
住所:田辺市本宮町本宮
電話番号:0735-42-0009
熊野本宮大社
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熊野速玉大社
神倉山にある霊石、天ノ磐盾(ゴトビキ岩)を御神体とする自然崇拝が信仰の起源。128(景行天皇58)年、天ノ磐盾に降臨した熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神の熊野三神を神殿へ祭ったことが始まりとされる。熊野御幸が盛んだった平安末期、平重盛が国安を願い植えた神木・梛(なぎ)の木や、当時より伝わる国宝神像、また熊野御幸の回数を示す石碑なども。約千年の時を経て受け継がれる祈りの証が現在も境内の随所に残る。
住所:新宮市新宮1
電話番号:0735-22-2533
熊野速玉大社
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熊野那智大社
紀元前662年、那智の浜に上陸した神日本磐余彦命(かんやまといわれびこのみこと)が光輝く山を目にし、その源を探したところ那智の大滝を発見し御神体として祭ったのが起源とされる。神日本磐余彦命はその後、熊野の神使である八咫烏(やたがらす)の導きで赴いた大和橿原で初代・神武天皇として即位。社殿には13の神々が祭られ、主神は日本最初の女神・熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。那智山の中腹にあって熊野御幸の最終目的地でもあり、その霊験を深く伝える場所に。
住所:東牟婁郡那智勝浦町那智山1
電話番号:0735-55-0321
熊野那智大社
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那智山青岸渡寺
熊野那智大社に隣接し、1868年の神仏分離令までは大社と一体だった。988(永延2)年、後に熊野御幸で再訪する花山法皇が来山。滝の近くに庵を結び、千日修行に挑んだ。そして満行の後、三十三観音霊場の巡礼を発願。今なお信仰を集める西国三十三所巡礼のきっかけとなったことから、一番札所に。インドの僧・裸形上人による開創以来、修験道との関わりも深く、2023年には明治期に失われた行者堂が150年ぶりに再建。
住所:東牟婁郡那智勝浦町那智山8
電話番号:0735-55-0001
那智山青岸渡寺
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