空海が高野山に込めた願い
〜「一人ひとりが主人公」の世界を歩く〜

和歌山県北東部、標高約800mの山上に広がる高野山。平安時代の初め、弘法大師・空海が真言密教の根本道場として開いた、日本を代表する仏教の聖地です。2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されました。

将来を約束された道を離れ、命がけで唐へ渡り、やがて高野山に自らの理想を託した空海。その生涯をたどると、壇上伽藍や奥之院の風景にも、これまでとは少し違った意味が見えてきます。

空海の生涯と高野山に残る足跡をたどりながら、この山に込められた願いを紐解いてみましょう。

空海が高野山に込めた願い〜「一人ひとりが主人公」の世界を歩く〜

空海とはどんな人? 高野山との関係を知る

「弘法大師」の名で親しまれる空海は、平安時代の初めに活躍した僧です。唐から真言密教を伝え、真言宗の礎を築きました。「空海」と「弘法大師」は同じ人物です。「弘法大師」という諡号(しごう)は、空海の入定後、その功績をたたえて921年に醍醐天皇から贈られました。


唐から帰国した後、真言密教の教えを実践する場所として空海が選んだのが高野山でした。高野山は一つの山頂や一つの寺院を指す名称ではありません。標高約800mの山上に117の寺院と町が広がり、その全体を総本山金剛峯寺の境内とする「一山境内地(いっさんけいだいち)」と考えられています。ここでは、身体・言葉・心を通して仏の世界を体得する真言密教の教えと、今も奥之院で空海が瞑想を続けているという信仰が受け継がれています。高野山は、空海の教えが風景となり、約1200年にわたって息づいてきた場所なのです。

【案内人:木下浩良(きのした・ひろよし)さん】

高野山大学 非常勤講師。清浄心院高野山文化歴史研究所 所長。

福岡県柳川市生まれ。1983年に高野山大学文学部を卒業後、同大学の職員として長年勤務し、2021年に定年退職後は研究活動に専念されています。専門は仏教考古学・高野山史。高野山奥之院の石塔や高野山町石道に関する著書を多数執筆し、NHK「ブラタモリ」では高野山の案内役を務められました。今回は木下さんのお話とともに、空海の生涯と、高野山に込められた思想をたどります。

地方の有力者の家に生まれた、将来有望な少年

空海は774年、讃岐国多度郡、現在の香川県善通寺市周辺に生まれました。幼名は真魚(まお)。父の佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)は、讃岐国の郡司(地方行政を担った役人)を務める家系の出身だったと伝わります。今や弘法大師として広く知られる空海も、幼い頃から仏教の道を歩むことが決まっていたわけではありません。地方の有力な一族に生まれ、将来は都で活躍することを期待された少年でした。


15歳頃に都へ出た空海は、母方の叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から漢学などを学び、18歳で大学寮へ進みます。大学寮は、官僚を育てる当時の最高教育機関でした。学生たちは中国の古典を学び、試験を重ねながら、官僚に必要な知識を身につけていきました。


しかし、空海はほどなくして大学寮を離れました。将来を期待された青年は、自ら「約束された道」を外れ、別の生き方を探し始めたのです。

エリートコースを飛び出した「ロック野郎」

  • 平安京の大学寮跡を示す石碑(京都市)

「空海さんは、今でいえば市長さんの家に生まれたようなものでしょう。しかも、地方の有力者の子弟が、中央の貴族のための学校だった大学寮に入るのは、当時としては珍しいことでした。そこで頭角を現し、学生の中でも優秀だったとみられます。おそらく一族にとって“期待の星”だったでしょう。大学寮に入った時点では、空海さんも中央官僚を目指していたと思います。ところが、都で食べることにも困る人々の姿を目の当たりにし、社会の大きな貧富の差に気づいた。自分一人が出世しても、世のため、人のためにはならない。もっと人の役に立つ道があるのではないかと考えたのかもしれません」。


空海が大学寮を離れた理由は、史料には詳しく記されていません。木下さんは、都で目にした社会の現実が、その決断につながった可能性を考えています。


「今でいえば、東京大学でトップクラスの成績を収め、あと数年学び続ければ、将来は上級官僚として出世できたはずです。それなのに、自らエリートコースを外れた。だから私は、空海さんを“ドロップアウトしたロック野郎”だと言っているんです」。


千年以上にわたり「弘法大師」として尊敬される空海も、最初から迷いのない偉大な宗教家だったわけではありません。周囲から期待された生き方に疑問を持ち、自ら別の道へ踏み出した一人の青年だったのです。

後の空海を形づくった「空白の10年」

大学寮を離れてから、804年に遣唐使として唐へ渡るまでの約10年間は、空海の行動を伝える記録が限られています。木下さんが「空白の10年」と呼ぶ時期です。


24歳で『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(のちに補訂・改題された『三教指帰(さんごうしいき)』)を著しているため、まったく記録がないわけではありません。阿波の大瀧嶽(たいりゅうがだけ)や土佐の室戸岬などで修行したとも伝わります。しかし、20代の多くをどこで、どのように過ごしたのかは明らかになっていません。


「私は、この“空白の10年”こそ、空海さんにとって大切な時間だったと思っています。唐では20年間学ぶ予定の私費留学生でしたから、その資金もどこかで用意しなければならなかったはずです。中国語を身につけ、近畿や四国などを歩いて山岳修行を重ねながら、唐へ渡るための準備をしていたのではないでしょうか。20代の空海さんについては、分かっていないことが多く、決まった人物像がありません。だからこそ、どんな経験を重ね、何を考えていたのか、一人ひとりが自分なりの空海さんを思い描いてもいいと思います。そうした知られざる時間が、後の空海さんの人間的な深さにつながったのかもしれません」。

命がけの海を越え、一通の書状が運命を開く

青年期に各地で修行を重ねたとされる空海は、奈良の久米寺東塔で、真言密教の根本経典の一つ『大日経(だいにちきょう)』に出合ったと伝わります。しかし、経典を読んでも理解できない部分があり、日本には教えを請う師も見つからない。そこで密教を本格的に学ぶため、唐を目指したとされています。


804年、31歳の空海は遣唐使の一員として海を渡ります。当時の航海は、遭難すれば命を落としかねない危険な旅でした。空海が乗ったのは、遣唐大使・藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)らが乗る第1船。同じ船団の第2船には、のちに天台宗を開く最澄(さいちょう)が乗っていました。


船団は暴風雨に遭遇し、空海を乗せた第1船は1か月以上にわたって漂流。唐の都・長安から遠く離れた福州へ流れ着きます。しかし、予定とは異なる場所に漂着したため、正式な遣唐使と認められず、すぐには上陸できませんでした。そこで空海は、大使に代わって現地の役人に提出する書状を作成しました。


木下さんは、空海が遣唐使船の第1船に乗っていたことにも注目します。

「私は、空海さんが第1船に乗ったのは、通訳に近い役割を期待されていたからではないかと思っています。唐へ渡る前から、かなりの中国語を身につけていたのでしょう。第1船と第2船が唐へたどり着いた一方、第3船と第4船はたどり着けませんでした。もし空海さんがそちらに乗っていたら、唐へは渡れなかったかもしれません。そういう意味では、空海さんは本当に“ラッキーボーイ”なんです」。


その幸運を生かせた背景には、それまでに積み重ねてきた学びがあったと木下さんは続けます。

「現地の役人は、空海さんが書いた文章と文字を見て驚きました。それだけの書状を書けたからこそ、正式な遣唐使だと認められ、上陸を許されたわけです。巡ってきた機会をつかめたのは、それまでの準備があったからでしょう。運もまた、その人が持つ力の一つなのだと思います」。

師・恵果と出会い、受け継いだ真言密教

長安へ入った空海は、まず梵語(ぼんご)を学びました。梵語とは、仏教経典にも用いられた古代インドの言葉、サンスクリットのことです。梵語の習得は、経典を読み解くための土台となります。


そうした学びを経て、805年、空海はついに長安の青龍寺(しょうりゅうじ)で、密教の高僧・恵果和尚(けいかかしょう)と出会います。恵果は空海を迎え入れ、その年の6月から8月にかけて、密教の教えを正式に授ける三度の灌頂(かんじょう)を行いました。空海は「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名を授かり、真言密教の教えを受け継ぎます。


「恵果和尚には多くの弟子がいました。それでも、唐へやって来て間もない異国の僧である空海さんに、密教の教えを授けました。空海さんの力を見抜いていたのでしょう。これは本当に、すごいドラマだと思います」と木下さんは語ります。


そして同年12月、恵果は亡くなります。もし出会いがもう少し遅ければ、その後の日本の密教の歴史も違ったものになっていたかもしれません。


さらに、空海は本来20年間、唐で学ぶ予定の留学僧でした。ところが恵果から教えを受け継いだ後、帰国を決断します。折よく日本へ戻る船が到着し、空海はその機会を逃さず、806年、渡唐からわずか2年で帰国しました。予定を大幅に早めたため、すぐには都へ戻れず、しばらく大宰府にとどまり、809年になってようやく都へ入ります。


「20年間の予定を2年足らずで切り上げて帰ってくる。これも奇跡なんです。ちょうど日本へ戻る船が来て、空海さんも今帰らなければ次はいつ帰れるか分からないと判断したのでしょう。巡ってきた機会を逃さず、帰国を決断したのだと思います」。

空海が自ら選び取った修行の地、高野山

唐から帰国した空海は、都を中心に真言密教を広めていきます。816年、空海は高野山に自らの修行道場を開きたいと嵯峨天皇に願い出ました。開創の許可を得た後、山上を修行の聖域として定め、伽藍の造営を進めていきます。


823年には、平安京を守る国の寺・東寺を嵯峨天皇から託され、講堂や五重塔の建設を進めました。空海が関わる以前から造営されていた東寺に対し、高野山は、自ら土地を求めて理想の修行道場を築こうとした場所です。木下さんは、「東寺では、いわば現場監督のような立場でした。でも、空海さんが本当に自分の理想を込めた寺は、高野山なんです」と両者の違いを説明します。


高野山の開創を願い出たことは史料で確認できますが、なぜ数ある山の中からこの地を選んだのか、詳しい理由は書き残されていません。

なぜ高野山を選んだのか? 木下さんが読み解くその背景

木下さんがその理由を考える手がかりとしたのが、若き日の空海の足取りと高野山の地形でした。


「記録には、空海さんが“少年の日”に山野を歩き、高野山とみられる土地を訪ねたことをうかがわせる記述があります。ただし、当時の“少年”は、現代の小学生や中学生を指すとは限りません。今でいう10代後半から20歳頃の青年を指す場合もあります。ですから私は、先ほど触れた“空白の10年”に、空海さんが高野山を訪れていたのではないかと考えています。青年に近い頃にここへ来て、すごくいいところだと思ったのではないでしょうか」。


周囲を山々に囲まれた高野山の地形は、仏が座る八葉の蓮花にもたとえられてきました。しかし、木下さんが注目するのは宗教的な意味や美しさだけではありません。


「高野山には山上とは思えないほど広い盆地があります。水も豊かで、渇水の時でも水に困ることがほとんどなく、地震の被害も少ない。広い土地があり、水があり、人が住める場所なんです。山の中に修行と学びの場を築くには、そこへ集まった人々が生活できる環境も欠かせません。空海さんは、こうした気象や地形の条件も分かっていたのではないでしょうか。初めてこの土地を見た時に、“ここはすごい場所だ”と思ったのだと思います。人が暮らし、修行できる場所として、絶好の土地だったのでしょう」。


高野山が持つ宗教的な意味と、生活の場としての現実的な条件。その両方を見て、空海はこの地に理想の修行道場を築こうとしたのではないか。木下さんはそう読み解きます。

空海の教えとは? 壇上伽藍に広がる曼荼羅世界

平安時代初期、仏教は国の安泰を祈る役割を担い、朝廷や貴族と強く結びついていました。そうしたなか、空海が唐で学び、日本へ伝えた真言密教では、身体・言葉・心を使った実践を通して、仏の世界を体得することが重視されます。


空海は、その教えを経典や絵によって伝えるだけでなく、高野山の伽藍にも表そうとしました。その中心となる壇上伽藍(だんじょうがらん)は、空海が高野山を開くにあたり、最初に整備へ着手した場所です。密教思想に基づいて塔や堂の建立が進められ、壇上伽藍は「胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)」の世界を表しているといわれています。


中央にそびえる根本大塔(こんぽんだいとう)は、真言密教の根本道場を象徴する建物です。内部には胎蔵大日如来を本尊として、その周囲に金剛界の四仏を配置。さらに、16本の柱には十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。


一方、西塔(さいとう)は、空海が描いた伽藍建立の計画をもとに、空海の入定後、第二世・真然大徳によって完成しました。西塔には、金剛界大日如来を中心に胎蔵界の四仏が祀られています。空海は根本大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表す「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として、二基一対で建立する構想を持っていました。


壇上伽藍を歩き、それぞれの建物や仏像に込められた意味を知ると、空海が形にしようとした密教の世界が、少しずつ見えてきます。

Column

【知っておくと高野山がもっと面白い!「曼荼羅」って?】

曼荼羅は、仏の世界や教えを、さまざまな仏の姿や配置によって表したものです。真言密教では、「胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)」と「金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)」を一対とする「両界曼荼羅(りょうかいまんだら)」が重視されます。


二つの曼荼羅はいずれも、大日如来を中心に、さまざまな仏の働きや関係を示しています。描かれる仏や構成は異なりますが、どちらか一方ではなく、二つを合わせて密教の世界観を表すものです。


壇上伽藍では、この二つの世界が、根本大塔と西塔に安置された仏の組み合わせにも表されています。二つの塔が一対として構想されたことを知ると、伽藍の構成に込められた意味を、より深く理解できます。

※西塔内部は通常非公開です。特別公開の有無など、最新の公開状況は総本山金剛峯寺公式サイトをご確認ください。

【知っておくと高野山がもっと面白い!「曼荼羅」って?】

「一人ひとりが主人公」の世界を体験する高野山

「空海さんの視線は、特権階級だけでなく、一般の人々一人ひとりにも向いていました。空海さんの思いは、“一人ひとりが主人公”だということなんです」。

木下さんは、空海の教えを現代の言葉でそう語ります。


「顔も違う、性別も違う、性格も違う。一人ひとり、違っていていいんです。しかも、仏はどこか遠いところにいるのではなく、自分の心の中にいる。亡くなってからではなく、生きているうちに、自分の中に仏がいることを自覚してほしい。それが空海さんの教えだと思います」。


その考え方を目に見える形で示すものとして、木下さんが挙げるのが曼荼羅です。

「胎蔵界曼荼羅には、大日如来を中心に、さまざまな姿をした仏たちが描かれています。一番外側には、一見、仏教とは関係がないように思える神々も描かれています。しかし、密教では、それらも大日如来が姿を変えたものと考えます。みんな仲間なんです。違っていてもいい。ただ、お互いの存在を認めなければいけません。一人ひとりの違いを認めるという空海さんの教えは、今の社会にこそ必要だと思います。今こそ、もう一度空海さんの教えに立ち返る時ではないでしょうか」。


そして、その思想に触れるには、本を読むだけでなく、実際に高野山を歩いてほしいといいます。

「高野山は、仏の世界を体験してもらうためにつくられた場所だと思います。本来なら、高野山町石道を一歩ずつ歩き、少しずつ仏の世界へ近づいていく。大門へたどり着いた時には、感激して涙を流す人もいるほどです。門をくぐると、山上には別世界が広がっています。まずは大門から入り、壇上伽藍を経て、奥之院へと歩いてみてください」。


木下さんは、高野山を歩くことで感じてほしい空海の思いを、次のように語ります。

「仏の世界は、“あの世”にだけあるのではありません。私たちが生きているこの世界の中にある。そのことを空海さんは見せたかったのではないでしょうか。高野山へ来て、空海さんの思いを少しでも感じてほしいですね」。

Column

【空海の教えを知るキーワード「即身成仏」】

即身成仏(そくしんじょうぶつ)とは、生きているこの身のままで仏になることができるという、真言密教の中心的な教えの一つです。身体・言葉・心の働きを仏の働きと重ね合わせる実践によって、その境地を目指します。木下さんが空海の思想を「一人ひとりが主人公」と表現する背景にも、この教えがあります。

【空海の教えを知るキーワード「即身成仏」】

今も生きる空海と、奥之院に集まり続ける祈り

835年、数え年62歳の空海は、奥之院で入定(にゅうじょう)したと伝わります。高野山では、空海の入定は単なる死とは捉えられていません。空海は御廟(ごびょう)で永遠の瞑想に入り、今も人々のために祈り続けていると信じられています。こうした大師信仰は、生身供(しょうじんぐ)という日々の営みや、奥之院の参道に広がる景観にも表れています。


一の橋から御廟まで約2kmに及ぶ奥之院参道には、20万基を超えるといわれる墓石や供養塔、慰霊碑が立ち並びます。皇族や貴族だけではありません。法然や親鸞といった他宗派の祖師、武田信玄や上杉謙信、織田信長、豊臣一族、伊達政宗ら戦国武将、さらに文人や庶民など、さまざまな人々にまつわる石塔があります。歴史上、敵同士だった人物たちに関係する供養塔が、同じ参道に並んでいるのも奥之院ならではの光景です。


木下さんは「奥之院には、宗派に関係なく、さまざまな人にまつわる石塔が建てられています。敵か味方かも関係ありません。誰でも仏であり、誰でも受け入れる。空海さんの思いが一番よく分かるのが、奥之院だと思います」と話します。


奥之院にある石塔のすべてが、本人の遺骨を納めた墓というわけではありません。それでも人々は、「お大師さまのそばにいたい」「その救いにあずかりたい」と願い、時代や身分、宗派を超えて、この山に祈りを託してきました。

Column

【約1200年受け継がれてきた「入定」と「生身供」とは】

「入定」とは、深い瞑想の境地に入ることを指す言葉です。高野山では、空海は入定後も、今なお奥之院の御廟で瞑想を続けていると信じられています。


その信仰を形にしているのが、「生身供」です。空海が今も生きているという考えのもと、現在も毎日2回、午前6時と午前10時30分に、食事の入った唐櫃(からびつ)が御供所(ごくしょ)から燈籠堂(とうろうどう)へ運ばれます。


木下さんによると、寒い季節には暖を取るための手火鉢も供えられるのだそうです。日々の食事と季節に応じた心配りに、「お大師さまは今もここにいる」という信仰が息づいています。

【約1200年受け継がれてきた「入定」と「生身供」とは】

空海を知れば、高野山の景色が変わる

将来を期待されながら官僚への道を離れ、唐で真言密教を学び、自ら選んだ高野山で理想の修行道場を築こうとした空海。壇上伽藍には曼荼羅の世界が形づくられ、奥之院には時代や宗派を超えた祈りが集まり続けています。


山麓の慈尊院から高野山町石道をたどり、大門をくぐって壇上伽藍、金剛峯寺、奥之院へ。空海の生涯や教えを知って歩けば、それぞれの場所に込められた意味が見え、目の前の景色も少し違って感じられるはずです。


高野山を歩きながら、自分なりの空海像を思い描く。そこから、史跡を巡るだけではない、空海の思想に触れる旅が始まります。

慈尊院
高野山麓の九度山町にある慈尊院(じそんいん)。空海が高野山を開く際、表玄関として創建したとされ、高野山一山の庶務を担う政所や、高野山への宿所、冬期の修行の場としての役割を果たしました。空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が滞在したと伝わり、女性の入山が認められていなかった時代から「女人高野」として信仰を集めてきました。木下さんも、空海ゆかりの和歌山の地として、ぜひ訪れてほしい場所の一つに挙げています。

和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
0736-54-2214(問い合わせ受付時間 8:00~17:00)
拝観時間/8:00~17:00
慈尊院
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高野山町石道
慈尊院を起点に、壇上伽藍へと続く代表的な参詣道です。空海が高野山を開いて以来、信仰の道として歩かれてきました。道沿いには約109mごとに、道しるべとなる町石が立ち、多くの参詣者が祈りながら山上を目指した歴史を今に伝えています。現在は、世界遺産の道をたどるトレッキングコースとしても親しまれています。

和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832(起点:慈尊院)
0736-54-2019(九度山町産業振興課)
高野山町石道
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大門
高野山一山の総門です。現在の建物は1705年に再建されたもので、高さは約25mあります。山道を上った先で巨大な門と出合い、その向こうへ進むと山上の町が広がります。木下さんがおすすめする高野山の歩き方も、ここがスタート地点です。山を上ってきたことを体で感じながら門をくぐれば、「高野山へ来た」という実感が一層深まります。

和歌山県伊都郡高野町高野山
0736-56-2468(高野町観光協会)
大門
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壇上伽藍・根本大塔
壇上伽藍は、空海が高野山を開くにあたり、最初に整備へ着手した中心地です。朱塗りの根本大塔は真言密教のシンボルで、内部そのものが立体曼荼羅として構成されています。さらに壇上伽藍の一角には、高野山の地主神である丹生明神や高野明神などを祀る御社があります。仏教だけでなく、この土地で以前から祀られてきた神々も大切にした空海。その姿勢にも注目しながら歩いてみてください。

和歌山県伊都郡高野町高野山152
0736-56-2468(高野町観光協会)
根本大塔拝観時間/8:30~17:00(受付16:30まで)
根本大塔拝観料/中学生以上 500円
小学生以下 無料
※共通内拝券あり(金剛峯寺、金堂、根本大塔、徳川家霊台、授戒料を含む)中学生以上 2,500円、小学生以下 対象外
壇上伽藍・根本大塔
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金剛峯寺・蟠龍庭
高野山のほぼ中央に位置する金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山。境内に広がる蟠龍庭(ばんりゅうてい)は、弘法大師の入定から1150年の節目に行われた御遠忌大法会に際して造られた、2,340平方メートルに及ぶ国内最大級の石庭です。白砂を雲海に見立てた庭には、雄と雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守るように配されています。龍を表す石には、空海の生誕地である四国の花崗岩が使われています。その背景を知ると、蟠龍庭の見え方も少し変わってきます。

和歌山県伊都郡高野町高野山132
0736-56-2468(高野町観光協会)
拝観時間/8:30~17:00(受付16:30まで)
拝観料/中学生以上 1,000円
小学生 300円
未就学児 無料
※共通内拝券あり(金剛峯寺、金堂、根本大塔、徳川家霊台、授戒料を含む)中学生以上 2,500円、小学生以下 対象外
金剛峯寺・蟠龍庭
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奥之院
壇上伽藍と並ぶ、高野山の二大聖地の一つです。杉木立に包まれた参道の先には、今も空海が瞑想を続けていると信じられる御廟があります。参道には、時代も立場も異なる多くの人々にまつわる石塔が立ち並びます。刻まれた名前を一つずつ眺めながら歩くと、約1200年にわたり、宗派や身分を超えて広がってきた大師信仰と、空海という人物の懐の深さを感じることができます。

和歌山県伊都郡高野町高野山550
0736-56-2468(高野町観光協会)
【奥之院 御供所(納経所)】
夏季(5月~10月) 8:00~17:00
冬季(11月~4月) 8:30~16:30

【奥之院 燈籠堂】
開堂時間 6:00~17:00
地下法場参拝 6:00~16:45
供養受付 8:30~16:30 ※予約不要
読経開始時間 9:00/10:20/11:30/12:40/13:40/14:40
ご祈祷受付 8:30~16:30 ※予約不要
※上記の時間以外で、下記日程・時間においては燈籠堂が再開堂いたします。
 1月1日 元旦 0:00~2:00頃
 8月13日 萬燈供養会(まんどうくようえ) 19:00~21:00
 10月1日~3日 萬灯会 19:00~21:00
奥之院
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