わかやま歴史の旅 大河ドラマで話題!豊臣家ゆかりの地を訪ねて

天下人・豊臣秀吉と、“最強の腹心”と呼ばれた弟の豊臣秀長の絆を描いた2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』。

作品の人気が高まるにつれ、豊臣兄弟ゆかりの地として注目が集まっているのが、和歌山県だ。

和歌山といえば徳川御三家の一角・紀州徳川家のお膝元。しかし歴史を掘り起こすと、戦国乱世を駆け抜けた豊臣兄弟の足跡が見えてくる。

わかやま歴史の旅 大河ドラマで話題!豊臣家ゆかりの地を訪ねて

石垣が語る城主の姿 和歌山城

最初に訪れるのは、和歌山市のシンボル・和歌山城だ。町の中心部に美しく積み上げられた石垣、壮麗な城郭、周囲のお堀を早朝からジョギングするランナーたちの姿に、この城が地域に愛され続けてきたことが伝わってくる。8代将軍吉宗も過ごした紀州徳川家の居城だが、築城したのは豊臣秀長。命じたのは秀吉である。1585(天正13)年、秀吉は10万人の大軍勢を率いて天下統一に向けて本格的な紀州攻めを行った。根来衆(ねごろしゅう)、雑賀衆(さいかしゅう)ら地侍たちを制しほぼ平定を成し遂げると、紀州支配の拠点として水運の要所である紀の川河口部に和歌山城の築城を命じた。これが和歌山城のはじまりと言われている。築城後、秀吉や秀長がこの城に居住することはなかった。秀長の城代として桑山家が、関ケ原の合戦後には浅野家が入城し、1619(元和5)年には徳川家康の十男・頼宣が入城した。主が変わり時代ごとに城郭も変わる中で、豊臣時代の名残は消失してしまっただろうか。

  • 和歌山城が築かれた「虎伏山(とらふすやま)」で見られる石垣は、秀吉・秀長の時代に積まれたもの。野面積みの野趣あふれる雰囲気が“戦う城”としての逞しさを示す
  • 徳川時代に入ると石を切り出す技術も上がり、遠方から砂岩や花崗岩が運ばれるようになった。きれいに切り揃え正確に積まれた石材が紀州徳川家の格式の高さを表している

和歌山城整備企画課の学芸員さんに案内してもらった。

豊臣時代の城の名残は、石垣に見られるという。天守閣を支えている石垣を見ていると、場所によって石積みに違いがあることがわかる。「石垣一つひとつがきれいな立方体の形に整えられている所は江戸時代になって築かれたもの。豊臣時代には自然石を切り出したまま重ねていく野面積みという古くからの技法が使われています」。見比べてみると石の種類も異なっていることがわかる。「豊臣時代に主に使われていたのは結晶片岩と呼ばれる石で、板状に割れやすい性質を持ち、城の周囲や近隣地域から切り出されたものです。対して江戸時代の石垣に使用されているのは主に砂岩。加工がしやすいのが特徴で、この周辺ではなく遠方から運ばれてきたものです。秀吉は和歌山城を紀州支配の拠点としていち早く完成させることを優先していたので、近場から石材を集めたのだと考えられます」。

  • 右手前が豊臣時代の野面積み、左が徳川時代の「打ち込みハギ」という技法の石垣。野面積みを抑え込むように取り付けられている
  • 天守台石垣は和歌山城で最も古いとされ、各所に解体した石塔の部材などを組み込んでいる。戦国時代の城には時々見られるという
  • 天守閣から紀の川を臨む。河口に整備された港に出入りする船の様子も見逃さない
  • 和歌山城が築かれた山は、遠くから見えると虎が伏せている姿に見えたことから「虎伏山(とらふすやま)」と呼ばれていた。城内にある伏虎像の後ろにも豊臣時代の石垣がある

石段を登って、築城が急ピッチで進められた様子がわかる天守台石垣へ。豊臣時代、築城時に積まれたとされている和歌山城で最も古い石垣で、こちらも野面積みで積まれている。学芸員さんが注目ポイントとして示したのは、天守台の石垣の上部。結晶片岩の中に白い石材が混じっている。「あれは別の用途で使われていたものを運び、石垣の材料としたものです。和歌山城を築城するために周辺から材料になりそうな大きな石であれば手当たり次第に持ってきたのでしょう。他によく見られる石塔などもあります。あのような石は『転用石』と呼ばれ、秀吉だけでなく織田信長が築城した安土城などにも見られます。平和な江戸時代に築かれた城は見栄えを考慮しますが、築城当初の和歌山城は居住目的ではなく侵攻作戦の拠点としての役割が大きかったことが、石垣からも知ることができます」。

豊臣時代の和歌山城を知る

  • 岡口門
  • 現在の追手門と一の橋

城の正面玄関が移動?

岡口門

大手門といえば城の正面玄関。実は現在の和歌山城の大手門(写真右)は、江戸時代に新たに造られたもので、豊臣時代には現在の裏側に近い場所にある「岡口門」(写真上)が大手門として機能していたといわれている。大手門を移動する必要があった理由はなぜか?それは和歌山城が築かれたことで人口が増加し、当時のメインストリートでは手狭になったため、北側に大手門を移動し城下町を整備したことが理由とされている。

石材は現地調達!

岡公園

豊臣時代の石垣に用いられた結晶片岩。近場から切り出されたというが、何とその石切り場は和歌山城の目と鼻の先にあった。現在は「岡公園」として整備されている敷地内に、かつての石切丁場跡が残っている。結晶片岩は別名“紀州の青石”とも呼ばれており、断面が青みがかって見えるのが特徴。和歌山城がこの場所に築かれた理由には、紀湊(きのみなと)を押さえる目的に加え、石材の調達が容易だったということも挙げられる。

ここで学ぼう!

わかやま歴史館

和歌山城の歴史をもっと知りたくなったらここへ。場内にある「わかやま歴史館」では、和歌山城の成り立ちや紀州徳川家について貴重な資料やパネル展示で解説している。秀長の家臣で築城の指揮を執った藤堂高虎や、城代として入城した桑山重晴の紹介も詳しい。歴史館の1階には観光案内所やお土産売り場もあり休憩スポットとしてもおすすめ。

和歌山市内の豊臣家ゆかりスポット

和歌山城築城の鎮守の神

刺田比古(さすたひこ)神社

創建より1000年以上の歴史を持つ由緒ある古社。この一帯が「岡」と呼ばれていたことから「岡の宮」とも称される。秀吉が和歌山城を築城する際に同社を鎮護の神として尊び、秀長も社殿の修繕を命じた。境内には和歌山城と同じ結晶片岩の石垣が残っている。

秀長の城代・桑山氏の菩提寺

珊瑚寺

古くは「三五寺」と称していた。秀長の城代として和歌山城の初代城主となった桑山重晴が現在の場所に寺を移築し、桑山氏の菩提寺とした。その際に、重晴が珊瑚の数珠を寄進したことから「珊瑚寺」と呼ばれるようになったという。

容赦ない水攻めで翻弄

太田城跡

現在、来迎寺(らいごうじ)という寺院が建ち、その敷地内に太田城跡の石碑が建立されている。太田城は秀吉の紀州攻めの際に武装集団・雑賀衆が籠城し抗戦。秀吉軍は城を取り囲む堤防を築き水攻めを行った。来迎寺の付近には戦いで亡くなった者たちを弔う小山塚が築かれている。


太田城跡/来迎寺

和歌山市太田2-3-7

  • 和歌の浦を一望できる玉津島神社裏の奠供山(てんぐやま)
  • 秀吉だけでなく山部赤人や小野小町、松尾芭蕉、夏目漱石など多くの文人が訪れた。玉津島神社の境内にある山部赤人の歌碑
  • 奠供山の登山道がある玉津島神社。「和歌三神」に称された和歌の名手、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られている

和歌の浦

潮の満ち引きにより姿を現す干潟や海に島々が連なる様子が古くから多くの人々の心を打ち、日本屈指の景勝地として知られてきた和歌の浦。その絶景は万葉集にも詠まれ、現在では「絶景の宝庫 和歌の浦」として日本遺産に認定されている。和歌の浦を遊覧した秀吉は、その美しさに感動して自分が築城した城に「和歌山城」と名付けた。和歌の浦の「和歌」と地名の「岡山(和歌山城のある場所の地名)」を組み合わせたものといわれる。現在の和歌山という地名の由来も和歌山城にちなむ。

豊臣兄弟は紀州の何を恐れたか

  • 紀の川の河口は広く、材木を運搬する大きな船も行き交うことができた。そのため戦に兵を派遣したり武器や物資を運んだり、迅速に計画を実行することができた

秀吉の紀州攻めにおいて抵抗勢力となったのが、紀州の在地領主が抱える武装集団と寺社の僧兵たちだった。現在の和歌山県内で秀吉ゆかりの場所を探すと、多くの寺社に激しい戦いの歴史を見つけることができる。秀吉にとっての紀州攻めとは何だったのか。秀吉は紀州の何を恐れたのか。和歌山県立博物館の学芸課長さんに聞いた。

Column

他地域と異なる紀州での戦い


秀吉は全国統一を果たす過程で日本各地で戦いを繰り広げ、各地を平定していく。九州であれば、抵抗勢力となったのは島津氏をはじめとする九州の諸大名だった。しかし紀州の場合は異なったようだ。「まず紀州の場合は、大大名と呼ばれるような一国を支配する戦国大名がいなかったんです。その代わり守護や奉公衆、地侍、寺社がそれぞれ領地を守り、村人や寺僧から成る大きな武力と影響力を持っていました。“戦国最強の鉄砲集団”と呼ばれた雑賀衆、根来寺(ねごろじ)を拠点とする根来衆、高野山などが代表的です。雑賀衆は秀吉の主君である織田信長とも敵対した本願寺の門徒。秀吉は圧倒的な兵力を率いて紀州に攻め込むと、彼らの拠点である寺社を次々に攻め落としていきました」。

戦国大名にくみすることなく自治集団を組織する紀州を、秀吉に随行していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、「宗教団体が四つ五つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在」と記している。紀州の地侍たちは琉球や中国などと交易を行い、豊かな経済力を持っており、鉄砲や鉄砲玉の原料となる鉛も輸入していた。その勢力は天下統一を目指す秀吉にとって大きな脅威になり得ただろう。

「全国平定の初期に紀州攻めは行われ、秀吉の軍勢は10万人から20万人にも及んだといわれています。そしてほぼ制圧できる目途がついた頃に和歌山城を築城。次の目標である四国攻めの拠点を築いたのです」。

紀州攻めという大きな山場を乗り越えた秀吉。次はいよいよ四国攻めへと駒を進める。紀州を抑えておけば四国はもう目と鼻の先だ。秀吉にとって紀州攻めの成功は全国統一への重要な足掛かりだったといえる。和歌山城は物流の要所である紀の川の河口付近に作られている。また紀の川の源流は紀伊山地。現在も高級木材として知られている紀州材や吉野材の産地へ繋がっている。築城にも大掛かりな戦術にも丈夫な木材は不可欠だ。秀吉にとって紀州・和歌山は、四国へ進軍するための兵站基地として何としても手に入れておきたい価値ある土地だったのだろう。


豊臣秀吉画像 佐賀県立名護屋城博物館 所蔵

他地域と異なる紀州での戦い

豊臣家ゆかりの寺社

根來寺(ねごろじ)

真言宗の開祖・空海が開いた高野山で修業を重ね、“真言宗中興の祖”と呼ばれた覚鑁(かく ばん)上人が開山。根來衆の本拠となったが、紀州攻めの際に秀吉軍に攻め落とされる。秀吉により焼き討ちされたといわれるが、一説には根來衆が撤退する際に失火したとも。復興が許されたのは江戸時代に入ってから。紀州徳川家の外護を受けて主要な伽藍が復興された。

  • 楼門から本堂へは231段の石段が続く。ケーブルカーに乗ってスムーズに参拝することもできる
  • 「春子稲荷」が祀られ、鏝絵で春子の伝説が描かれた白壁がある
  • 和歌山県随一の桜の名所として知られる

紀三井寺

770年に開かれたとされる古刹で、西国三十三所第二番札所。紀州攻めの際に秀吉の軍勢が迫るも、観音堂に仕えていた娘・春子が白い狐の姿となって身を挺(てい)し、軍を率いていた秀長から「焼き討ち禁制」の書状を得たという伝説が残る。和歌山屈指の桜の名所としても知られる。

  • 開創は奈良時代末期。人々の信仰を受けて繁栄したが秀吉による紀州攻めで堂塔や伽藍、寺宝などを焼失した。紀州徳川家のもと復興。桜の名所としても有名
  • 現在は秋葉山公園として整備されている猿岡城跡。粉河寺境内から歩いて山道を登り公園へ

粉河寺(こかわでら)

こちらも770年創建の古刹で、強大な勢力を保持していたが根來寺と同時期に秀吉軍によって攻め落とされ全山焼失した。近くには本堂防衛のために猿岡城が築城されていたが、制圧後に和歌山城築城を指揮した藤堂高虎がけん制のために入城し居住した。粉河寺は江戸時代に紀州徳川家の寄進を受けて復興する。

  • 金剛峯寺は高野山真言宗の総本山。秀吉は母・大政所(おおまんどころ)の菩提を弔うために青厳寺を建立。隣に木食応其が建てた興山寺と合併し、現在の金剛峯寺となった
  • 奥之院には弘法大師の御廟があり、そこに続くおよそ2キロメートルの参道沿いには20万基以上の墓石や供養塔が建てられている。墓碑は豊臣一族だけでなく織田信長や伊達政宗などの名前も

高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)

真言宗の総本山・高野山は、紀州攻めの災禍を免れた寺社のひとつ。まさに攻め入ろうと圧力を掛ける秀吉に対し、木食(もくじき)応其という僧が巧みな交渉術で信頼を得て焼き討ちを回避。秀吉はその後、高野山の復興を支援。母の菩提寺として金剛峯寺を建立し、弘法大師空海の御廟がある聖地に豊臣家の墓所も設けている。

  • 仁徳帝の頃(4世紀)、インドの僧、裸形上人が那智大滝で修行を積み草庵を営んだのが最初と伝わる。平安時代には「蟻の熊野詣」といわれるほど熊野詣でが盛んになった
  • 那智山青岸渡寺の本堂後方から眺めると、那智の滝と朱塗りの塔の調和が美しく、絶好のフォトスポットとなっている

那智山青岸渡寺(せいがんとじ)

西国三十三所第一番札所として知られる名刹。熊野那智大社とともに神仏習合の霊場として栄え、2004年には世界遺産に登録された。如意輪観音を祀る本堂(重要文化財)は、天正18年に豊臣秀吉が秀長に命じ再建したもの。堂内にかかる日本一の大鰐口(直径140センチメートル)には秀吉が奉納したと刻まれている

このページは『九州王国PREMIUM2026』に掲載された内容を元に作成しています。


記事をダウンロードする

↓↓↓

ページ
トップへ