八代将軍・徳川吉宗の原点、紀州和歌山時代のゆかりの地を訪ねて
江戸時代中期、「享保の改革」を断行して幕政を立て直し、徳川幕府の中興の祖といわれる八代将軍・徳川吉宗。紀州藩主の四男として生まれ育った幼少期、相次ぐ兄の死によって藩主になり、その才能を発揮、将軍にまで上り詰めます。この記事では、将軍就任以前、紀州和歌山で過ごした時代に焦点を当て、少年時代から藩政に取り組んだ足跡をたどり、ゆかりの地を紹介。周辺のおすすめスポットとあわせて、吉宗の足跡をたどる旅を楽しんでみませんか。

1.藩主の四男として和歌山城下で生まれる
徳川吉宗は1684年(貞享元年)10月21日、紀州藩2代藩主・徳川光貞(みつさだ)の四男として和歌山城下で誕生しました。幼名は源六(げんろく)。母は光貞の側室・於由利(おゆり、浄円院)で、紀州藩士の巨勢(こせ)六左衛門の娘とされています。ただし、母の出自については別の説もあり、各地を巡礼していた母娘で紀州にたどり着き、和歌山城の大奥奉公から藩主の湯殿掛かりになって、光貞のお手付きになったともいわれています。
ゆかりのスポット【徳川吉宗生誕の地】
藩主の子は江戸の紀州藩邸か、和歌山城内で出産するのが通常ですが、吉宗は城下の御用屋敷(和歌山市吹上)で生まれました。現在、誕生の地を示す碑が建っています。
徳川吉宗生誕の地
ゆかりのスポット【復元工事が進む「扇の芝」】
和歌山城の南西部、中央通り県庁前交差点の一角にある「扇の芝」。紀州藩初代藩主・徳川頼宣(よりのぶ)の和歌山城拡張によって形成されました。城の石垣が4段に折れ曲がったように配置された「屏風(びょうぶ)折れ」構造になっており、その手前を見通しのいい広場にすることで、敵の攻撃に備える軍事的な役割を担っていたようです。
『南紀徳川史』によると、捨てられた子は丈夫に育つという民間信仰に基づき、吉宗は誕生してすぐに扇の芝に捨てられ、刺田比古(さすたひこ)神社の宮司・岡本周防守(すおうのかみ)が拾ったとされています。
扇の芝は明治以降、民家や商店が建つようになりましたが、2025年度までに建物が撤去、土地も公有化されました。2026年6月には市民によって芝が張られ、2027年度には広場として開放される予定です。
扇の芝
ゆかりのスポット【刺田比古神社】
吉宗の拾い親となったのが、この地(岡地区)の産土神(うぶすながみ)である刺田比古神社の宮司・岡本周防守です。
吉宗は将軍就任後、刺田比古神社に太刀や神馬を奉納し、社領を寄進。開運出世の神として今も崇敬されています。
刺田比古神社
TEL 073-422-6576
2.青年藩主・徳川吉宗が誕生
1694年(元禄7年)に、幼名・源六から新之助と改名。翌年には従五位下・主税頭(ちからのかみ)に叙任され、1695年(元禄8年)には従四位下・左近衛少々に昇進、松平頼方(よりかた)と名乗りました。1697年(元禄10年)には5代将軍・徳川綱吉に江戸の紀州藩邸で拝謁し、越前(福井県)の葛野(かずらの)藩3万石を与えられて大名に列せられます。自身は領地に行くことはなく、家臣を遣わせて同地を治めさせました。
和歌山城下に与えられた屋敷で暮らし、身長六尺余り(180cm以上)ともいわれるほど立派に成長。相撲好きの父・光貞の前で力士と対戦して勝ったことや、狩りに出て大イノシシを鉄砲の台尻で打ちのめしたなど、“暴れん坊”な逸話がいくつも残っています。
1705年(宝永2年)、紀州藩に激震が走ります。同年5月、長兄の紀州藩3代藩主・徳川綱教(つなのり)が41歳で病没。続いて同年8月に父・光貞が79歳で死去し、さらに同年9月には4代藩主となったばかりの兄・徳川頼職(よりもと)までが26歳の若さでこの世を去りました。
紀州藩主の座に就ける者は他にはいません。頼方は5代紀州藩主となり、将軍綱吉の「吉」の字をもらって徳川吉宗に改名。このとき、弱冠22歳。四男坊がまさかの藩主就任でしたが、喜んでばかりはいられませんでした。
3.藩財政の再建を誓い、才能を発揮
吉宗が藩主になった頃の紀州藩の財政は、まさしく火の車。紀州藩の財政悪化は、初代紀州藩主・頼宣(よりのぶ)時代の1668年に幕府から十万両を借りたことから始まり、三度にわたる江戸紀州藩邸の焼失、光貞の嫡男・徳川綱教と将軍綱吉の娘・鶴姫の婚姻(1685年)による出費、綱吉が江戸紀州藩邸を訪れた際のもてなし、綱教・光貞・頼職と続いた大葬儀などで紀州藩の貯えは底をついていました。
若き藩主吉宗は財政再建に挑みます。まず、質素倹約を率先垂範(すいはん)。藩主として初登城の際には小倉織の袴に木綿羽織を着て騎馬で入城して、美服を着て出迎えた家臣を恥じ入らせたといいます。また、奉行が作成する帳簿には吉宗自身が目を通し、その計算違いを指摘したと伝えられるほど、財政の健全化に意欲をみせました。
緊縮政策と並行して、新田開発や殖産興業にも力を入れました。優れた人材を積極的に登用。紀州流土木工法の祖といわれる井沢弥惣兵衛為永(ためなが)や、大畑才蔵を重用しました。
ゆかりのスポット【龍之渡井(たつのとい)】
紀の川北岸は、古くから干ばつに襲われやすい地域。吉宗は、農民出身ながら藩の土木技師になっていた大畑才蔵(おおはたさいぞう)に、新田開発のために用水路を作るよう命じました。1707年(宝永4年)、紀の川上流の伊都郡小田村(現・橋本市)から工事は始まり、那賀郡今中村(現・岩出市)まで延長され(大畑才蔵自身は完成を見ずに死去)、約1035haの水田が新たに開発されました。
この水田を潤し続けるため、小田井用水は完成後も度重なる改修を行うことになります。小田井用水路は現在も活用され、2017年(平成29年)、県内初の「世界かんがい施設遺産登録」を受けました。
穴伏川幅約18mの谷に水路橋を架ける小田井用水の水路橋「龍之渡井」は、最大の難工事でした。現在の龍之渡井は、1919年(大正8年)に作られた煉瓦造・石造・コンクリート造の単アーチ橋で、国の登録有形文化財に指定されています。
小田井用水路 龍之渡井
ゆかりのスポット【亀池公園】
溝ノ口村(現・海南市)出身の井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ、大畑才蔵の上司)によって、灌漑(かんがい)用池として1710年(宝永7年)に造られた「亀池」。完成により、付近の10ヵ村(約300ha)の田畑がうるおい、米300kl(約7000人分)が収穫できるようになりました。
1968年(昭和43年)、紀州徳川家の別邸・双青閣(そうせいかく)が和歌浦から池の中島に移築され、つり橋「双青橋」で渡ることができます。池の周囲には遊歩道(約4km)が整備され、春には約2000本の桜が咲き誇る「亀池公園」として親しまれています。
井沢弥惣兵衛は後に、将軍になった吉宗に従い幕臣として江戸に赴き、各地で新田開発や河川改修に実力を発揮。見沼用水(埼玉県の利根川~東京都の荒川)の開削は、紀州流の土木技術の優秀さを示しています。
亀池公園
TEL 073-483-8461(海南市産業振興課)、073-484-2326(海南市物産観光センター)
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ゆかりのスポット【藩校跡】
1713年(正徳3年)、吉宗は湊御用屋敷跡(現・和歌山市湊紺屋町)に「講釈所(講堂)」を設置し、藩校の基礎を築きました。常時180人ほどの藩士が出席して講義を聞き、当時の著名な儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「紀州の学問は諸国の中で一番盛んである」と評価したほど。吉宗は経済だけでなく、文教行政も重視した先進的な藩主でした。
藩校跡
ゆかりのスポット【岡山時鐘堂】
1712年(正徳2年)に建てられた「岡山時鐘堂」。藩士に登城の時刻を知らせるとともに、城下に時を告げる役割を担っていました。2人の番人によって管理され、城下で火災や洪水が発生した際や、異国船が出没した際など、非常時には早鐘で人々に知らせたといいます。
明治維新後も引き続き使用されましたが、1921年(大正10年)3月31日に時報が廃止。現在は、県指定文化財になっています。
岡山時鐘堂
4.紀州藩を見事に立て直し、将軍就任へ
吉宗のリーダーシップと優れた家臣の実務力により、藩の財政は大幅に改善。藩主最後の年となる1716年(正徳6年)には、和歌山城の金蔵に14万887両と米11万6400石が蓄えられるほど裕福な藩になりました。
吉宗は経済だけでなく、学問向上に力を入れ、武道も奨励。自らイノシシ狩りを行い、捕鯨のためと水軍の訓練も実施しました。また、和歌山城大手門外に、広く意見を求めるために訴訟箱を設置したと伝えられ、後の幕政における「目安箱」にも連なります。
そのころの幕府は、大きな転機を迎えていました。6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)は1712年(正徳2年)に死去。7代将軍に家宣の幼い嫡男・家継(いえつぐ)が就いたものの、生来の病弱で、側用人の間部詮房(まなべあきふさ)や儒学者の新井白石らによる側近政治が行われていました。
1716年(正徳6年)4月29日、江戸の紀州藩邸で弓を引いていた吉宗に、江戸城への登城を命じられます。実は、7代将軍の家継が危篤状態になっていたのです。吉宗は将軍後見役を要請されるも、当初は固辞。天英院(家宣の正室)に説得され、後見役になることを承知。翌日に家継が8歳で没すると、5月1日に8代将軍に就任しました。
紀州藩で財政再建を成功させていた吉宗は、このとき33歳。尾張藩主の徳川継友(つぐとも)は藩主になって3年目の24歳で経験は浅く、また水戸藩主・徳川綱條(つなえだ)は60代。御三家の中では吉宗が一番たくましく映りました。家宣・家継時代の側近政治に不満を持っていた老中からの推薦もあり(家宣の正室・天英院と、家宣の側室で家継の母・月光院との確執もあった)、吉宗が将軍まで上り詰めたのです。
◆徳川吉宗年譜
1684年 誕生(幼名・源六)
1694年 新之助に改名
1695年 松平頼方に改名
1697年 越前葛野藩3万石を拝領
1705年 5代紀州藩主に就き、徳川吉宗に改名(22歳)
1716年 8代将軍に就任(33歳)
1745年 将軍職を辞し、大御所に
1751年 死去(68歳)
こんなところにも!吉宗ゆかりのスポット
-生母・浄円院が厚く信仰した「養源寺(ようげんじ)」
947年(天歴元年)、法華経6万部の読経祈願を立てていた円善上人(えんぜんしょうにん)が骨になっても読経を続け、その凄まじい姿を見た壱叡上人(いえいしょうにん)が、法華壇を築いて供養したのが始まりとされています。
1711年(正徳元年)、徳川頼宣時代の「広御殿」の跡地で紀州藩の御殿地になっていた場所を、徳川吉宗が寺に寄進。吉宗の正室・理子(まさこ、寛徳院)の御殿を江戸から運び、その木材で諸堂を建立しました。日蓮宗大黒天をまつり、吉宗の生母・浄円院(じょうえんいん)は深く信仰したと伝えられています。
浄円院は将軍の生母として江戸城に迎えられ、晩年を江戸で穏やかに過ごしました。近代に編纂された「婦女艦(ふじょかがみ)」には、浄円院は慎ましやかで品行方正な女性として描かれ、幕府中興の英主である息子をあたたかく見守った賢母として称えられています。
慎ましくて高慢になることはなく、侍女に対しても粗略な扱いをすることがなかったといわれ、吉宗には小国の領主であった時のことを忘れず、傲慢(ごうまん)になってはならないという戒めから、「三万石の時を忘れるな」と語っていたそうです。
浄円院の出自については諸説ありますが、いずれにしても高い身分ではなかったようです。吉宗にも庶民の暮らしぶりを伝えていたのでしょうか。吉宗は質素倹約を奨励し、人々の声を聞く「目安箱」を設け、無料の医療機関「小石川養生所」を建てるといった庶民目線の政策を行ったのは、母の影響があったのかもしれません。
現在、養源寺では毎年4月の第1日曜に「大黒天の開帳」が行われ、徳川吉宗にあやかり、「出世大黒天」として信仰を集めています。
また、江戸から移築された養源寺書院は、細部に至るまで寸分たがわずに再現され、養源寺での法要における控室として利用されています。
養源寺
TEL 0737-62-3341
こんなところにも!吉宗ゆかりのスポット
歴代藩主の夫人や子女が眠る「報恩寺(ほうおんじ)」
1609年(慶長14年)に建てられたとされる「要行寺(ようぎょうじ)」が前身。1666年(寛文6年)に徳川頼宣の正室・瑤林院(ようりんいん、加藤清正の五女)が葬られ、2代藩主徳川光貞は瑤林院追善のために諸堂を建立し、「報恩寺」と改めました。
以来、徳川家の菩提寺となり、吉宗の正室・真宮理子(寛徳院)など歴代藩主の夫人や子女が葬られています。
報恩寺
TEL .073-422-9466
制作協力/小山譽城(歴史学博士)
参考文献/小山譽城「徳川将軍家と紀伊徳川家」(清文堂)
この記事で紹介したスポットマップ
- 徳川吉宗生誕の地
- 扇の芝
- 刺田比古神社
- 龍之渡井(たつのとい)
- 亀池公園
- 藩校跡
- 岡山時鐘堂
- 養源寺
- 報恩寺
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